◆テロ事件の衝撃
2015年1月のパリとその郊外で起きた連続テロは世界に衝撃を与えた――「私はシャルリ」のプラカードは、フランスのみならずヨーロッパ各国の市民によって掲げられ、テロを非難する行進が各国首脳を招いて行われた。
ことの発端は、1月7日午前11時半頃、シェリフ・クアシとサイード・クアシ兄弟が「シャルリ・エブド」(以下「シャルリ」)を襲撃したところから始まる。11人を射殺した兄弟のうちシェリフは、逃亡中にテレビ局にその動機が「預言者(ムハンマド)の仇をとるため」だったと証言した。
この事件は、イスラム過激派やフランスの移民問題、あるいは若年世代の社会での境遇等々、様々な視点から論じることができるだろう。ここではこの事件における「表現の自由」の問題に焦点を当てて論じてみる。この論点を理解することが、私たちがこのテロ事件をどう受け止めるべきか、どう論じるべきかのスタート地点となるからだ。
テロ事件まで「シャルリ」という週刊誌(フォーマットは新聞に近いが、発行は週1回)の名を知る人はフランス国外では少なかっただろう。ましてや、実際の「シャルリ」がどのような風刺画を載せていたのかを知っている人はもっと少ないはずだ(関心のある人は、Charlie Hebdoとグーグルで画像検索してみるといいかもしれない)。
それでも、テロ事件にあうほどだから、余程ひどい風刺をしたに違いない、と想像するのが普通である。実際、事件が報道される中で、「シャルリ」がムスリムを挑発するかのような風刺画を掲載していたこと、イスラム教で預言者ムハンマドを描くことが例外であること、フランス社会のマイノリティであるムスリム(イスラム教徒)が差別の対象となっていたことなどが知られるところとなった。
◆「シャルリ」への批判と誤解
こうした中で出てきたのが、テロは許されないが、宗教や信心に無用な挑発をするのは表現の自由の名を借りた横暴ではないか、という意見である。例えば、1月9日の朝日新聞社説はテロを非難する一方、「挑発的とも言える風刺画の掲載は、部数を増やす話題づくりの側面がうかがえる」と、「シャルリ」の姿勢をいさめるものだった。13日の「天声人語」でも「言論への暴力は許されない。それは動かぬこととして、週刊新聞「シャルリ・エブド」の宗教風刺画をめぐる議論などは、あってしかるべきだろう。それもまた大切な言論の役割といえる」と、風刺が正しかったものかどうかも検討されるべきと説いている。いわば「けんか両成敗」、テロは許されないが、テロを受けるほうにもいくばくかの責任がある、という主張である。最近では宮崎駿監督が「異質の文明に対して、崇拝しているものをカリカチュア(風刺画)の対象にするのは、僕は間違いだと思う」と述べて、風刺は自国の政治家に向けるべきとラジオで意見表明している。
こうした指摘を取り違えて「シャルリ」の風刺画が許されるなら、ヘイトスピーチまでが許されてしまうではないか、とする議論すら見受けられるまでになった。
事件後に「シャルリ」が再びムハンマドを風刺したことで、ナイジェリアやパキスタンでは「反シャルリ」のデモが高じて死人までが出る騒ぎが起き、イランでは「反シャルリ展覧会」と称して、ホロコースト犠牲者を揶揄(やゆ)する漫画展を開催した。文明間の対立をあおるような姿勢は避けなければならないという意識が、こうした意見を後押しする。
念のためにいえば、「シャルリ」のムハンマド風刺をいさめる風潮は日本に固有なものではない。ニューヨーク大学の歴史家イアン・ブルマやアメリカの国民的な風刺画家ロバート・クラムは、「シャルリ」の挑発的な姿勢が余りにも無神経だと批判した。
おこがましいかもしれないが、しかし、これらの意見は、「表現の自由」の本質を理解していないがゆえに、実は何も言っていないに等しい。その理由を、まずは「表現の自由」の起源から説き起こすことで説明してみよう。
◆「表現の自由」の本質
「表現の自由」の起源は、近代の市民革命にある。イギリスの名誉革命(1688~89年)、アメリカの独立宣言(1776年)にも類似の文言を確認できるが、フランス革命時の人権宣言(「人間と市民の権利の宣言」1789年)で定式化されたとするのが一般的である。
この宣言はその第11条で「思想および意見の自由なコミュニケーションは、人の最も貴重な権利の一つである。したがって、すべての市民は、法律によって定められた場合にその自由の濫用について責任を負うほかは、自由に、話し、書き、印刷することができる」と、人が持つ固有の権利に「思想と意見の自由なコミュニケーション」を数えた。
なぜ「表現の自由」が権利とされたのか。それは17~18世紀の啓蒙主義の時代を経て、人々の考えや言葉もまた王政や教会権力に対する抵抗の資源となること、そして人々の考えや思想は権力から隔離された自由なものでなければならないと考えられたからだ。市民は、生まれや階級に捉われず、自らを縛る権力から自由になって、自分たちの手で社会を作り上げていく。こうしたルソー流の人民主権の基礎をなすのが「表現の自由」なのである。
誤解されやすいが、宗教的な意見を持つことは、この「表現の自由」のうちに含まれる。人権宣言は第10条で「宗教的な意見であっても、個人は意見を表明することについて懸念することはない」と定め、個人の信仰に基づく自由を認めている。ただし、それは絶対王政の時代のように教会の権力に支えられるものではなく、数ある意見の中の一つでしかない、とされたのである。
人権の一つに表現の自由を含むという考えは、その後の民主体制と自由主義の発展もあって、脈々と受け継がれることになる。戦後の世界人権宣言(1948年)、欧州人権条約(53年発効)、あるいは日本国憲法(46年公布)やフランス憲法(58年に制定されたフランスの現行憲法の前文には人権宣言を受け継ぐ旨が記されている)にも権利として盛り込まれた。
◆自由が制限されるのは例外
もっとも「表現の自由」は、最初から無制限なものではなかった。人権宣言でもその自由は法律で定めるところの濫用はしないこと(第11条)、あるいは法律で定められるところの公の秩序を乱さないこと(第10条)を条件に認める、とうたわれた。つまり、「表現の自由」の範疇(はんちゅう)に含まれないものもあらかじめ想定されていた。
具体的にはどういうことか。フランスに焦点を絞ってみてみよう。フランスでは1881年に「プレスの自由」を定めた法律が発布され、今でも改正して運用されているが、ここにも例外が明記されている。条文では、他人への侮辱、中傷、誹謗(ひぼう)の表現は権利として守られる対象ではないとされ、刑法で禁じられている行為、国家・国民の「核心的利益」、人道に対する罪、あるいは民族、国民、人種、宗教、性的志向、障害の有無を理由にした差別、憎悪、暴力を挑発するような表現も権利として認められない、としている。2014年にはテロ教唆も、この例外のリストに加えられている。
つまり、表現の自由という個人の権利は、他者に危害を加えることを目的としないこと、特定集団や個人をその属性でもって差別しないことを例外規定として、原則的に認められるべきものということになっている。
もっとも、これらはあくまでも例外規定である。表現の自由がまずは認められるべきもので、その上で害が生じた場合に事後的に救済するという論理をとっていることを忘れてはならない。それというのも表現の自由の範囲をなるべく広くとっておかない限り、その時々の権力の恣意的な解釈によって、何が許されるかが決まってしまう可能性があるからだ。「人を傷つけるような表現はすべきではない」というのは道徳論としてはあり得ても、法律論としては成り立たない。自由は受け入れられる範囲で行使されるべきものだとしてしまえば、自由の意味はなくなってしまう。
◆権力を批判する自由
「シャルリ」に話を戻そう。