大韓民国(韓国)での徴用工問題を巡る裁判で新日鉄住金への賠償判決が確定した。ところが、この判決を巡って日韓双方の意見が異なる。この食い違いはどこから生じているのか。韓国ではなぜこのような判決に至ったのか。「元徴用工の韓国大法院判決に対する弁護士有志声明」の呼び掛け人の一人で弁護士の殷勇基さんと、日韓請求権協定に詳しい新潟国際情報大学教授の吉澤文寿さんに話を聞いた。
Q. 日韓請求権協定で請求権は解決したのではないのか?
「法的な用語が一般の日本語とズレることがある、というのがここでのポイントと思います。1991年8月27日の参議院予算委員会で、柳井俊二外務省条約局長(当時)が請求権協定第二条にある『日韓間の請求権が完全かつ最終的に解決』されたということについて、次のように答弁しています。
日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。
このように日本政府は、日韓請求権協定の『解決』とは、『国家が持つ外交保護権を放棄した』という意味にすぎず、『被害者個人の請求権は消滅していない』、という見解を示してきました。つまり日本政府は、法的用語の『解決』を、『完全解決ではない』と意味に理解してきたのです。」(殷勇基氏)
Q. 日本政府はなぜ個人請求権が消滅していないと言うのか?
「日本が独立を回復したサンフランシスコ平和条約(1951年)との関係があります。日本はサンフランシスコ平和条約で、連合国の政府との間で、お互いの権利を放棄し合いました。それにより、たとえば、原爆の日本人の被害者がアメリカ政府に賠償を請求することができなくなります。そのため、アメリカに対する自分の権利を勝手に日本政府に放棄されたことを理由に、原爆の日本人被害者が(アメリカ政府ではなく)日本政府を訴えたのです(原爆訴訟)。これに対して、日本政府は、『いや、その放棄というのは国家が持つ外交保護権を放棄しただけで、被害者個人の請求権を勝手に放棄したわけではない』『したがって、日本政府への賠償請求は認められない』と反論したのです。
サンフランシスコ平和条約での『放棄』についてこのような見解に立ったため、日本政府としては、ソ連や韓国などとの関係でも同じ見解に立つことになりました。たとえば、韓国内に財産を持っていた日本人から『権利を勝手に放棄した』と訴えられても、日本政府としては同様に『個人の権利を勝手に放棄したわけではないから日本政府には責任はない』という反論をすることになります。
韓国に住む韓国人が1990年代に入って日本の裁判所で日本政府などを訴えるようになると、この韓国人たちについても日本政府の見解が適用されることになりました。つまり、韓国人被害者の個人請求権は残っていることになっていたわけです」(殷勇基氏)
Q. 個人請求権は消滅していないのに、なぜ日本政府は韓国の判決を否定するのか?
「ここでは、『救済なき権利』というのがポイントです。日韓請求権協定の『解決』を、『国家間の外交保護権を放棄しただけ』『被害者個人の権利は残っている』と理解してきたのが日本政府の見解でした。ただ、日本政府は2000年頃からそれまでの見解を変え、こんどは、『解決』を、『国家間の外交保護権を放棄した』+『被害者の権利は救済なき権利に変わった』という見解に立つようになりました。
『救済なき権利』というのは、〈訴訟では救済されないけれど、訴訟の外では救済される権利〉のことを言います。つまり、裁判で被害者個人が賠償を請求する権利はないけれど、裁判外で、加害者が賠償金を払えば被害者はそれを正式に受け取る権利があるということです。とはいえ、被害者個人の請求権について、訴訟上の権利もそのまま認めていたのがそれ以前の政府見解だったわけですから、その重要な点が、日本政府の新見解では変更されていることになります。
2007年4月27日には、中国人原告による戦後補償訴訟で二つの最高裁判決が同日に出され、最高裁は、日本政府の『救済なき権利』という新見解を追認しました。この判決は日中間についての判決だったのですが、日韓間など、他国との間でもこの判決の理屈は適用されるとされました。被害者個人の権利については、裁判上の権利がなくなったというのですから、裁判を起こしても負けてしまいます。このため、以後、日本国内の裁判所では、被害者個人の救済が認められることはむずかしくなりました。
とはいえ、なぜ日本政府は韓国の今回の判決を否定するのか、という質問については、日本政府の旧見解でも新見解でも理屈に合わないのは同じことです。旧見解なら〈日韓請求権協定で『解決』といっても個人の権利は残っている〉わけですから、日韓請求権協定を理由に日本政府は韓国の判決を否定できません。日本政府の新見解だと、被害者は裁判にはもちこめなくなってしまうわけですが、訴訟の外で自発的に支払うことは問題ありません。つまり、日本政府の新見解でも、韓国の判決に従って新日鉄住金が訴訟外で賠償金を支払うことを日本政府は否定することができません。
結局、『日韓請求権協定の『解決』が法的な障害になるので、加害企業が被害者個人に支払いをすることができない』という日本政府による韓国大法院判決への批判は、日本政府自身の見解からしても理屈が合っていないのです」(殷勇基氏)
Q. 韓国では個人請求権が消滅したとしていたのに、なぜ韓国大法院は個人請求権を認めたのか?
「日韓請求権協定の理解については、以前から日韓間には『ねじれ』がありました。日本政府は前述のように『被害者個人の権利は(そのまま)残っている』としていたのですが、韓国政府は、『被害者個人の権利は全部消滅している(ので、裁判もできない)』としていたのです。
その後、日本政府は前記のとおり新見解に変更しました。また韓国政府も1990年代には見解を変更し、被害者個人の権利は残っているという立場に立つようになりました。韓国では、今回の大法院判決よりもかなり以前から個人請求権は残っている、という見解になっていたわけです」(殷勇基氏)
「日本側が2000年頃から個人請求権が日韓請求権協定で法的には解決しているという主張になったことを受けて、韓国の戦争被害者らは協定交渉時に何が話し合われたのかを明らかにするため、02年に交渉文書の公開を韓国外交通商部に要求しました。05年に韓国で約3万6000枚の文書が公開されると、日本でも強制動員被害者や日本の市民などにより外務省に情報開示請求が行われ、08年には約6万枚の文書が開示されることになりました。
これらの文書によって、今回の裁判で訴えられているような、戦時中の不法な支配における反人道的な不法行為に基づく問題については、請求権協定を結ぶ際にはそもそも前提になっていなかったことが明らかになりました。このことが『個人の請求権は消滅していない』という韓国大法院の判断に結び付きます」(吉澤文寿氏)
Q. 請求権協定の交渉当時、何が請求権消滅の対象とされたのか?
「韓国側は、日韓請求権協定の交渉時に『対日請求要綱』として以下の8つを日本側に請求しました。