2018年、『タクシー運転手〜約束は海を越えて~』と『1987、ある闘いの真実』という2本の韓国映画が日本で静かなヒットを呼んだ。それぞれ1980年5月の「光州5.18民主化運動」と1987年6月の「6月抗争」という、韓国の民主化と関わる大きな歴史的事実を題材としたものだ。
この二つは別々の出来事ではない。それどころか「光州5.18がなければ6月抗争もなかった」と言われるほど密接な関わりがある。韓国で5月、6月は韓国民主化を考える上で欠かせない時期とされる。本稿を通じ40周年を迎えた「光州5.18」を理解することが、今なおダイナミックな韓国社会を知るヒントになるだろう。
(1)想像を絶する出来事
習志野に本拠地を置く第一空挺団は、日本の自衛隊における最精鋭部隊として広く知られている。その部隊があなたの街に現れ、機関銃を積んだヘリと最新の装備をもって市民を一方的に攻撃すると仮定した時、あなたは一体どんな行動を取るだろうか。きっと「分からない」という答えがもっとも多いだろう。一般的な想像をはるかに超える環境だからだ。
1980年5月、韓国の全羅南道・光州(クァンジュ)市では実際にそんな状況が起きた。
後に「光州5.18民主化運動」と呼ばれることになる、10日間にわたる市民と韓国軍の衝突は5月18日日曜日、全南大学での韓国の特殊部隊・第7空輸旅団(空挺旅団)による学生への殴打から始まった。日頃からデモ鎮圧のための高度な訓練を受けた兵士は、学校封鎖に抗議するため校門前に集まった学生たちの頭に棍棒をためらいなく振り下ろした。プロ用の木製バットに使われるほど強い素材トネリコで作られた特殊棍棒だった。
学校前で兵士に手も足も出ずやられた丸腰の学生たちは、数キロ離れた市の中心部にある全南道庁(県庁にあたる)前に集合し、市民に特殊部隊が市内にいることを知らせると同時に、人を集め抗議のデモを再編成した。光州にある全南大学、朝鮮大学は民主化運動デモを70年代から繰り返してきており、慣れたものだった。しかし市内で対峙した警察の対応はいつもと違い激しかった。学生たちは困惑しつつも態勢を立て直し、18日の午後には市内各所で千人単位のデモを続けた。
丁寧な聞き取りを元に当時の記録を詳細に書き記し、韓国で「光州5.18を知るための必読書」とされる『死を超えて、時代の暗闇を超えて』(1985年)では初日となる18日の市内中心部の様子をこう書いている。
「錦南路2街忠長路入り口に投入された第7空輸旅団35大隊の200人余りは、似たような状況を演出した。周囲で見守っていた市民たちはとても信じられない光景を目撃し衝撃を受けた。空輸隊員たちは運行中のバスの乗客や行き来する市民の中から、若い人は無条件で捕まえ、下着だけ残したまま脱がせて頭を地面に押さえつけた。デモの現場はあっという間に修羅場になった。彼らは男女を区別しなかった。手当たり次第に3〜4人で飛びかかり棍棒で叩き、軍靴で蹴り、踏みつけた。空輸部隊はまるで殺人免許を所持しているかのように残忍だった」
こんな想像を絶する暴力は老人や障害者にも向けられた。韓国政府の記録では18日、大学生114人、専門大生35人、高校生6人、浪人生66人、一般市民184人の合計405人が連行されたとある。実際にはさらに多かった。
光州ではその後10日間で165人が死ぬ(ほか不明者84人※)ことになるが、一人目の犠牲者は聴覚障害者のキム・ギョンチョル(24 当時)だった。軍による銃床や棍棒での殴打により後頭部は砕け、左目は破裂していた。また、路上で空輸部隊に拘束された市民40人余りをこっそり解放した警察幹部は、市民が見る前で兵士たちにめった打ちにされた。(※韓国政府の公式的な死亡者の統計は未だない)
(2)取り残された光州
なぜ、特殊部隊は全南大学に現れ、学生たちを殴り連行したのか。多少複雑な当時の政治的状況を振り返ってみたい。
1979年10月26日、18年間の軍事独裁政治を敷いてきた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が酒席で腹心に射殺されると、韓国ではひと月あまり権力の空白が生じた。12月に大統領となった崔圭夏(チェ・ギュハ)は緩やかながらも国民の強い要求があった民主化に向かう意志を見せた。だが同じ時期、軍内では葛藤が起きていた。特殊部隊を率いる全斗煥(チョン・ドゥファン)保安司令官は閑職に追いやられるとの恐怖から、12月12日に軍内の私的組織『ハナ会』と共に軍事反乱を起こし、軍内の実権を掌握した。
全斗煥はこのクーデターを力業で崔大統領に認めさせ、一躍国政のトップに躍り出た。目的は、朴正熙が持っていた強大な権力を受け継ぐことにあった。表向きは北朝鮮の脅威を名分にしたが、正当性は何もない文字通り国政の簒奪だった。
もちろん大きな反発があった。当時「三金」と呼ばれた金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)、金鐘泌(キム・ジョンピル)の有力政治家がクーデターを認めず、民主化とりわけ大統領直接選挙制を求める大学生が全国で激しくデモを行うなどその勢いはすさまじく「ソウルの春」と称された。特に5月13日から15日にかけては、ソウル駅前に10万人以上(20万人とも)の大学生が集まり、民主化要求はピークに達した。
しかし15日にデモの学生指導部は、「軍隊の介入を招いてはならない」といった理由で集会の解散を決めた。「ソウル駅での回軍」と呼ばれる出来事だ。軍と10万人の学生が衝突し、軍が発砲する事態にでもなる場合、これを指揮する全斗煥の政治生命は保たない。デモの撤収により全斗煥率いる新軍部と呼ばれる過渡期政権に余裕が生まれた。
一方の光州でも当時、民主化を求め学生と市民が動いていた。14日から16日にかけて「民主化大盛会」という名で全南大学が主催し行われたデモには3万人以上の市民が参加した。このデモは、警察との事前打ち合わせの下で平和裏に行われた点が特徴だ。学生は後に戒厳軍が暴力を正当化するために強弁した「暴徒」などではなかった。最終日の16日には、全南道庁前でたいまつが焚かれ、民主化運動の機運は高まっていった。
そうした中、5月18日0時を機に非常戒厳令が全国に拡大された。