戒厳令は憲法で定められた大統領の権限であり、国家非常事態に発令できるようになっている。憲法第77条には「非常戒厳時には言論・出版・集会・結社の自由さらに政府と裁判所の権限に関し特別な措置を行える」とある。全斗煥は戒厳令による行政と司法の掌握に飽き足らず、国会の敷地にも軍を進め立法府を事実上解散させ三権を停止させた。
当時、韓国は済州島を除き既に非常戒厳令下にあったが、全国に拡大することには大きな意味があった。これにより、戒厳司令部が国防部長官の指示を受けなくなり、上には大統領が残るのみとなったからだ。保安司令官の全斗煥は腹心を戒厳司令官に据えており、また当時の崔圭夏大統領は既にお飾りとなっていたため、全斗煥が韓国の国政を一手に握ったことになる。
この5月17日の出来事は韓国で「5.17内乱」と呼ばれる。前年12月から始まった全斗煥によるクーデター(12・12事件)の完成だった。同時に、全国で2699人が「予備検束」の名の下で令状がないまま逮捕された。ここには前述した金大中をはじめとする「三金」、そして軍隊生活を終えソウル市内の慶熙(キョンヒ)大学に復学し、学内の民主化運動を率いていた現大統領の文在寅(ムン・ジェイン)氏も含まれていた。
これが冒頭で述べたような「大学封鎖」の背景だ。混乱を極めた1980年5月当時の様子を、文大統領は自伝『文在寅の運命』の中でこう綴っている。
「(ソウル駅での回軍の際)復学生たちが学生会の会長団を説得しようと努力したが、デモ経験のない彼らは軍が投入されるという知らせに恐れをまず抱いた。そうやって解散した大学生は再び集まることができなかった。そんな大事な分かれ道でソウルの大学生がサッと避難してしまったので、光州の市民たちだけ孤独に戒厳軍と闘うことになった」
なぜ光州だったのか。理由は二つある。
前述したようにソウル首都圏のデモは解散していた。さらに、反朴正熙の金泳三の地盤で「野都」として名を馳せた釜山(プサン)市では、朴正熙暗殺の引き金となった1979年10月の大きなデモ「釜馬(ぶま)抗争」がやはり空輸部隊により鎮圧されていたために静かだった。つまり、5月16日の時点で民主化要求デモを行っていたのは光州だけだったのである。
もう一つは、光州市がやはり朴正熙に正面から挑んだ在野の大物・金大中の政治的な地盤だったからだ。
(3)「どんな犠牲を払ってでも追い出す」
「光州市民は『なぜ闘うのか』を何度も繰り返し討論した」
5月末、李在儀(イ・ジェウィ、64)氏はヘリ射撃による245発の弾痕が今も生々しく残る光州道庁前の「全日ビル245」でこう述べた。
李氏は全南大学生だった40年前、「光州5.18民主化運動」における指導部のメンバーだった人物で、当時の状況に詳しい。さらに冒頭で紹介した『死を超えて、時代の暗闇を超えて』の主要執筆者である。2017年の改訂版の執筆も手がけるなど光州の「生き証人」と言える。
1980年5月19日には、第11空輸旅団3個大隊が光州に投入された。一方、市民側のデモには前日と異なり、学生以外の労働者、会社員、主婦なども参加した。背景にはあまりにも酷い戒厳軍の仕打ちへの怒りがあった。とはいえ、依然として市民は投石を行う程度で、発砲はしないものの着剣したM16ライフルを振り回す特殊部隊との差は歴然だった。
李氏はこの19日を指し「一度目の5月抗争(光州5.18)の質的な飛躍」と表現する。高校生にまで構わず暴力を振るい市内を掌握した戒厳軍を前に、「このままでは皆殺しになる。どんな犠牲を払っても奴らを光州から追い出してこそ、私たちが生き延びることができるという気持ちが芽生えた」と言うのだ。
市民の抵抗は少しずつ強まっていった。油を入れたドラム缶に火をつけて転がし、道端の花壇や電話ボックスなどを使い、軍と対峙するバリケードを作った。さらに舗装ブロックを壊し投石用の石とした。バスターミナルでは数千の市民が戒厳軍と真っ向から衝突する中、戒厳軍側の暴力も次第にエスカレートしていった。この日から特殊部隊は、銃剣を実際に使用し市民を切り裂いた。初めての発砲もあった。エンジンの切れた装甲車に市民の一団が近づいた時、ハッチが開き、高校3年生のキム・ヨンチャンがM16ライフルで撃たれた。
続く20日には、さらに最精鋭とされる第3空輸旅団が光州に投入された。ベトナム戦争にも派遣され、現地の住民を虐殺したこともある「選り抜き」の戦闘部隊だ。この日、デモには10万人以上が参加したとされる。当時の光州の人口は約73万人。地域の中心地であるため学生だけで11万人がいたとはいえ、その数の多さが分かる。
李氏はこの日に「二度目の飛躍」があったとする。午後7時に行われた車両デモが象徴している。200台余りのバスとタクシーが参加し、全南道庁前に迫った。結局は車両のほとんどは戒厳軍により破壊され、多数の運転手が負傷し逮捕されたが、自発的で組織的な動きを李氏は「民衆自らが歴史の前面に自身の生涯をなげうつ瞬間だった」と表現した。当時の自動車は、庶民にとっては貴重品である。これは既に戒厳軍と対峙していた市民にとって「光州市民すべてが闘っている」という確信を抱かせる出来事でもあった。20日午後9時の段階で、全南道庁前の錦南路では7万人の市民が集まり、空輸部隊に大きな圧力をかけていた。
だが、光州市民のこんな奮闘や戒厳軍の狼藉は、韓国の他の地域には全く伝わっていなかった。「報道指針」と呼ばれる厳しい報道規制のためだった。韓国の18日、19日のニュースに光州は取り上げられなかった。業を煮やした市民たちは公営放送KBS、MBCの光州支社を占拠し、火を放った。20日、『全南毎日新聞』の記者一同は辞表を白紙の新聞に掲載する。「私たちは見た。人が犬のように引きずられ死にゆく姿をしっかりと見た。しかし新聞にはただ一行も載せられなかった。これを恥じ私たちは筆を擱く」。
また20日には光州駅前で第3空輸旅団と市民が激突した。この場所で戒厳軍に初めての死者が出た。市民の勢いはすさまじく、数で劣る戒厳軍についに発砲命令が下ったのだった。光州駅前でM16ライフルの射撃により5人の市民が死亡したものの、市民はついに戒厳軍を追い返すことに成功した。戒厳軍にとって市民は完全に「殺害の対象」となっていた。