「東欧革命から30年。ポピュリスト台頭で今日も続く東西間の『政治的分断』~①1989年、ソ連各国で吹き荒れる民主化の嵐」からの続き。次々と「衛星国」を失うソ連。第二次世界大戦で、多大な犠牲を払って手にした「勢力圏」を奪われ、西側からは冷戦の敗者として扱われる。その鬱屈が30年を経て……?
東欧革命とロシアの屈辱感
1989年の東欧における民主革命は、欧州の地政学的な地図を塗り替えた。西ドイツ政府はゴルバチョフを説得し、東ドイツに駐留していた約30万人のソ連軍を完全に撤退させた。東西ドイツは90年に統一され、約8000万人の人口を持つ大国が、欧州の中心に誕生した。
東欧諸国は次々にソ連の勢力圏を離れて西側陣営に移った。まず99年3月12日にポーランド、チェコ、ハンガリーが、米国を頂点とする軍事同盟・北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。また2004年3月29日には、バルト三国とブルガリア、ルーマニア、スロバキアとスロベニアがNATOに加盟。また04年5月1日から13年7月1日までにポーランド、ハンガリーなどの旧ソ連11カ国(旧ユーゴスラビアの2カ国も含む)がEUに加盟している。
ロシア人たちは、第二次世界大戦でのナチスドイツとの戦争に「大祖国戦争」という特別な呼称を与えている。この戦争でのソ連の死者数は2000万人を超えると推定されている。
冷戦時代のソ連指導部にとって、東欧諸国に対する覇権を手に入れたことは、第二次世界大戦で多大な犠牲を払ってナチスドイツを撃退したことに対する、一種の「勝利のトロフィー」だった。
当時ポーランドやチェコスロバキアは、「ソ連の衛星国」と呼ばれた。東側陣営の中心、はソ連であり、東欧諸国はその周囲を回転する衛星、つまり属国と見られたのだ。
そのことは建築様式にも表れている。現在もポーランドのワルシャワや、エストニアのタリンなどには、高い尖塔を持つソ連様式の建物が残っている。モスクワ大学本館と同じ様式である。俗に「スターリン様式」とも呼ばれるこれらの建築は、ポーランドやエストニアがソ連の支配下に置かれていたことを象徴するものだ。
冷戦終結後に東欧諸国が続々とNATOとEUに加盟したことは、ロシア人たちの心情を傷つけた。彼らにとってはNATOとEUの東方拡大は、大祖国戦争で確保した東欧諸国という「勝利のトロフィー」を次々に喪失することを意味し「東西冷戦に敗北した」という屈辱感を一段と強めた。
特にNATOとEUがエストニア、ラトビア、リトアニアという、第二次世界大戦の終結以降ソ連の領土に編入されていた国々を迎え入れたことは、ロシアにとっては強い屈辱だった。一方ロシア革命後、第二次世界大戦が始まるまでは独立国だったバルト三国から見れば、NATO・EUへの加盟は、西側の国際機関に身を埋めることによって、ロシアからの自由と独立をさらに強固にする目的を持つ。NATOは集団的自衛権の原則を持っており、加盟国が外国からの軍事攻撃を受けた場合、他の加盟国は自国が攻撃されたときと同様に、反撃する義務を負うからだ。NATO加盟は、東欧諸国にとって万一の事態に備えるための重要な「保険」である。
ロシアの対外政策の変化
ロシアの対外政策は21世紀に入ってから、過去に比べて攻撃的な性格を強めている。まず同国は2008年8月には隣国ジョージアに一時侵攻した。ジョージアからの分離独立を求める南オセチア、アブハチア地区の親ロシア派の住民たちを支援するためである。
また14年2月にはウクライナで親ロシア派だったビクトル・ヤヌコビッチ大統領が失脚。彼はウクライナのEU・NATOへの接近に消極的だった。ヤヌコビッチ政権に代わる親EU政権の樹立を受け、ロシアのウラジミール・プーチン大統領は、14年3月にウクライナ領だったクリミア半島に戦闘部隊を送って占領し、ロシアに併合。さらに同年4月からはウクライナ東部で分離独立勢力を支援して内戦に介入している。