カラバフ地方で戦った義勇兵たちは帰還後、ヴァズゲン・サルキシャン国防相(当時)の下で退役軍人同盟イェルクラパに組織化され、アルメニア政界に大きな影響力を持った。
一方、カラバフ地方のアルメニア人勢力も国防軍的な軍事組織「アルツァフ防衛軍」を形成した。これは、表向きはアルメニア国防軍と別個の軍事組織であるが、装備・人員の面で緊密に結びついており、構成員の半分以上はアルメニア共和国居住者で占められているとされる。アルメニア共和国自体も、「1994年の停戦合意に署名した一当事者として停戦時の状態を維持し、「アルツァフ」(カラバフ地方)の安全を確保する義務と権利がある」との見解を示し、アゼルバイジャンに対する牽制を続けてきた。
しかしながら、カラバフ地方のアルメニア人に対する物心両面での支援は、アルメニア共和国にとって大きな負担にもなっている。特に独立当初は、ソ連崩壊で余儀なくされた経済体制の転換、ソ連末期に発生したスピタク地震(1988年)の被害の影響、紛争に起因するアゼルバイジャンとトルコによる経済封鎖でアルメニアの経済は危機に瀕していた。
1994年の停戦後も小競り合いが続く中、和平交渉は続けられていた。1997年に紛争を調停する欧州安保協力機構(OSCE)のミンスクグループ(ナゴルノ・カラバフ紛争を平和的に解決するために設立されたグループ。フランス、ロシア、アメリカが共同議長国となっている)から提案された旧ナゴルノ・カラバフ自治州領域を除く全占領地域からのアルメニア軍の撤退を含む和平案に対し、時のアルメニア共和国大統領レヴォン・テルペトロスィアンは共和国経済の再建を重視する観点から前向きな姿勢を見せた。しかしこの時は方針に反発した有力閣僚らの政権離脱を招き、結果的にテルペトロスィアン大統領は退陣せざるを得なくなった。この一件は「カラバフ地方」すなわち民族自決と、「経済」が天秤にかけられがちなアルメニアの状況を示すものである。この天秤を釣り合わせるため、後述するようにアルメニアのロシアへの依存はさらに強いものになっていった。
周辺国の動向
このように、現状維持ないし現状打破を目的として、紛争当事者は周辺国の影響を受け入れざるを得ない。コーカサス地域に対して絶大な影響力を保持するのが、旧ソ連の中心国家であったロシアである。ソ連の継承国として、旧ソ連圏での影響力保持を企図した外交を展開している。アルメニアとの関係では、ナゴルノ・カラバフ紛争の初期から武器供与や各種支援を実施するなど、当初から結びつきは強かった。また、ロシアが主導する集団安全保障機構(CSTO)にはアルメニアが参加しており、経済面でも2015年にユーラシア経済連合(EAEU)に参加するなど、周辺国境の大部分が封鎖されているアルメニアの対ロシア依存は増している。
一方、ロシアとアゼルバイジャンとの関係は、かつては良好とは言えなかった。独立当初のアゼルバイジャンの激烈なトルコ民族主義や、反ソ連すなわち反ロシア姿勢と、そこから転じた親西欧路線、94年のチェチェン紛争においてアゼルバイジャンが示した親チェチェン姿勢などが原因である。しかし1993年以降は、現在まで続いているYAP(新アゼルバイジャン党)とアリエフ大統領(93年からはヘイダル・アリエフ、03年からは息子のイルハム・アリエフが大統領を務めている)の政権下で徐々に改善してきた。ことナゴルノ・カラバフ紛争に関してはロシアの立ち位置について猜疑心・警戒心が根強いが、一定の良好な関係を構築している。
これに対し、当事者の一方への支持が鮮明なのがトルコである。トルコは「1つの民族2つの国家」という言葉があるほどにアゼルバイジャンと強い精神的歴史的つながりを持っている。1918年のアゼルバイジャン民主共和国成立、1919年の首都バクー解放はオスマン帝国軍の影響と支援によるものであった。またソ連体制下での国境画定において、カラバフ地方と並んでアゼルバイジャンとアルメニアの係争地であったナヒチェヴァン地方がアゼルバイジャン領の自治共和国となったのは、ムスタファ・ケマル(アタテュルク〈父なるトルコ人〉の称号で知られる、後のトルコ共和国初代大統領)率いるトルコの大国民議会政府とソヴィエト・ロシアとの間で締結された1921年のモスクワ条約に基づくものであった。トルコは1994年までの紛争でも一貫してアゼルバイジャンを支持し、2010年には軍事面も含む戦略的パートナーシップ協定を締結している。今回の軍事衝突の少し前となる7月末から8月初めには、合同で軍事演習を実施していた。対照的に、トルコとアルメニアの関係はオスマン帝国時代のアルメニア人虐殺が深い影を落としており、現在に至るまで国家間の外交関係が樹立されていない。
もう一つの周辺大国として忘れてはいけないのが、イランである。イスラム教シーア派が多数を占めるという点でアゼルバイジャンと共通項を持つイランであるが、同国の北西部にはアゼルバイジャン人がイラン最大のマイノリティとして存在していることが両国の間での懸案事項となってきた。ソ連崩壊前後、アゼルバイジャンでは「南北アゼルバイジャン統一」を掲げる民族主義勢力が伸長したことからイランがこれを警戒し、ナゴルノ・カラバフ紛争ではイランはアルメニアへの支援を行った。トルコとアゼルバイジャンに経済封鎖されたアルメニアは、イランからの支援で命脈を保ったのである。アゼルバイジャン側にとっても、国内のシーア派コミュニティに影響力を行使し得るイランの存在は警戒の対象となってきた。
カラバフ地方をめぐるアルメニアとアゼルバイジャンの対立をさらに複雑なものにしているのが、中東問題とのリンクである。「敵の敵は味方」とばかり、中東での対イラン強硬路線からアゼルバイジャンに注目したのが、イスラエルである。アゼルバイジャンに対し近年、軍事ドローンなどの先端兵器を供与するほか、アゼルバイジャンの欧米における外交攻勢にユダヤ・ロビーの協力が取りざたされた。また、対イラン空爆を行使する際の中継基地候補として、アゼルバイジャンの名が度々挙がってきた。アゼルバイジャンの国民感情としては同じムスリムであるパレスチナへの連帯を表明する向きも強いが、政府間レベルではイスラエルと極めて親密な関係を構築している。
停戦から四半世紀、なぜ「今」紛争が再燃したのか?
このように複雑に諸事情が絡み合う対立関係がある中、なぜ「今」、カラバフ地方をめぐる軍事衝突が大規模に展開されたのか。
当事国の事情を見てみれば、まずアルメニア側、そして「アゼルバイジャンからの分離独立を主張するカラバフ地方のアルメニア人勢力」側としては、1994年の停戦までに勝ち取った現状を維持することは事実上の勝利であり、これ以上の攻勢も大きな譲歩をして和平を結ぶ必要性も希薄である。
一方のアゼルバイジャン側にとっては、現状維持は敗北・領土喪失の固定化を意味する。すでに1994年の停戦から25年以上経過する中で、現実的な施策として国内避難民には再定住支援を実施しているが、展望の見えない和平交渉とそれを仲介する国際社会への失望は色濃いものとなっている。
そんな中、今回の衝突が起きた直接的な契機については不明であるが、ここに至る大きな転機として2つの点が指摘できよう。