コロナで表面化した心の病
アイザック・ニュートンが、万有引力の法則を発見したのは、ペストの流行で通っていたケンブリッジ大学が一時休校になって、故郷に里帰りしている最中だったという。後にニュートンはこの期間を“創造的休暇”と呼んだ。
外出禁止令が出た最初の頃、時間の余裕ができたのだから“創造的休暇”を過ごそう、新しいことに挑戦しよう! という大合唱が起きた。コンマリのアドバイスに沿って家じゅうを整理整頓しよう、料理上手になろう、外国語を習おう、小説を書き始めよう、絵を描こう、ギターの練習をしよう。日々流れてくる呼びかけに、私も「何かやらなければ」というプレッシャーで押し潰されそうになった。
アメリカで崇拝されているPRODUCTIVITY(生産性至上主義)こそ、今捨てるべきだということに気づいたのは、しばらくたってからだ。コロナによる非常事態で、変わり果てた生活とどう折り合いをつけるのか悩み、将来の不安でいっぱいな時に、新しいことへの挑戦や、創造的な活動をするなんて無理な話なのだ。
私自身、そして周囲の友人の多くも、日々、怒涛のように飛び込んでくるコロナウイルス関連のニュースを消化し、正気を保ちながら生き抜くので精いっぱいだった。
今までは、仕事に社交にと大忙しだったニューヨーカーが、ロックダウンによって24時間一人で(あるいは家族と)家に籠ることを何カ月も強いられ、いやでも自分と(そして家族と)向き合った時に、それまで目を背けてきた人生のあらゆる問題と直面することになった。そして、多くの人がその重圧で、心の病を患った。今の仕事を続けるべきか。高い生活費を払ってNYに住む意味はあるのか。パートナーや、親、子ども、兄弟姉妹との間にある確執をどう解決するのか。
最初は嬉々として参加していたZoom飲み会にも飽きて、パソコンや携帯の画面越しのあらゆるコミュニケーションが苦痛になりはじめた頃、夜眠れないとか、不安でパニック発作に襲われるという声が聞こえはじめた。
アメリカ人アーティストの友人は、小売店で働きながら、夏はキャンプ場のマネージャーをしていたが、コロナでどちらの仕事も失って収入がゼロになった。空手黒帯の3段で、普段から体を動かすのが好きだった彼女は、不安症からほとんど運動をしなくなり、体重がどんどん増えていった。普段、底抜けに明るく活発な日本人の女友達は、ロックダウンで外出できなくなり、心が落ち着かない状態が続いて、不眠症、食欲不振から、さらにパニック発作に襲われるようになった。その頃カウンセリングで、パートナーや家族との関係について見直していた時でもあり、逃げ場がない状況下で、自分と対峙せざるを得なくなった。忘れていた暗い過去、そして今の自分に対する幻滅が、耐え難い重圧でのしかかってきたという。
ロックダウンによって生活環境がオンラインに移行し、それによって蝕まれた心を癒やすのも、皮肉なことにオンラインでのカウンセリング・サービスだった。人気カウンセラーの元には、相談者が殺到した。
友人のカウンセラーでもあるジョン・リベラも、連日予約で一杯だという。彼に話をきいてみた。「ZoomやFaceTimeは、人と繋がっているようで、実はより深い孤独感を招くのです」と彼は言う。それは、金魚鉢越しに人と会話しているようなもので、いかに自分が孤立しているか、リアルに人と会えない状況にいるかを無意識に思い知らされるからだと。なるほど、Zoom会議などの後に感じる、心のもやもやは、そういうことだったのかと納得する。
住民のメンタルヘルスが危機的状況にあるのを知ったニューヨーク州政府は、急遽無料カウンセリングのコールセンターを設置。ボランティアを募ったところ、他の州の人も合わせて6000人を超える精神医療の専門家が手を挙げた。
ロックダウンから2カ月後の5月23日、ニューヨーク州でコロナ感染による1日の死者の数が、ロックダウン以来、初めて100人を切ったとクオモNY州知事が発表。多い時で1日800人の死者を記録していた4月半ばに比べると、大きな進歩だった。この時点で州の感染者の総数はおよそ36万人、死者は2万3000人超。パンデミックが収束へ向かい、ロックダウン解除も間近かという期待が高まった頃、事件は起きた。