一方で、コソボのアルバニア人は2019年、NATO空爆20周年を「祝う」式典を大々的に開きました。私は、「イミダス」の連載(「塵芥の声を聴く」第14回および第15回参照)でも、独立記念日ならともかく、無辜(むこ)の市民まで殺した空爆を祝うなんて何ごとだ、と書きましたけど、彼らの心情も、それはそれで分からなくはないのです。あの空爆がどれほど不公正なものだったかは明らかですが、それでも、救われたアルバニア人からすれば、NATOはセルビアによる迫害から解放してくれて、国を与えてくれ、援助もしてくれる。そういうことを考えれば、被害を相対化しろと言うのは、人間の感情としてはやはりかなり厳しいものがある。
セルビアでもコソボでも、現地の人たちの複雑な思いを知れば知るほど、旧ユーゴに取り返しのつかない分断をばらまいたアメリカの罪を重く感じます。ミロシェビッチ・元セルビア大統領とKLAも同罪ですが、アメリカは他国の内政に武力で干渉したと言えます。ミロシェビッチは1990年にコソボにおける公教育からアルバニア語を追い出しました。これなどは日本政府による朝鮮学校の無償化外しと同じです。アメリカ政府はこの時には何も言わなかった。
民族主義に抗う
長 そんな分断の中でも、『コソボ 苦闘する親米国家』を読むと、どの民族にも必ず分断や民族主義に抗っているまっとうな人たちがいて、救われる思いがしました。
木村 そうですね。サッカーの世界は、とりわけ代表戦は、民族主義が激しく噴出する場です。コソボサッカー協会で副会長を務めるセルビア人のヨービッチは、同じセルビア人から「裏切り者」だと罵倒され続けました。アルバニア代表からコソボ代表に転籍したコソボ育ちのアルバニア人、ラシツァ選手も、やはり同胞からのバッシングを経験しています。それでも彼らは民族融和を進めて多民族チームを築くことを諦めていません。コソボ代表を率いてW杯ロシア大会予選を戦ったブニャーキ監督は、「ナショナリズムでは、チームの質は上がらない」と断言しました。
自分の民族の犯罪を追及するジャーナリストにも、数多く出会いました。
「黄色い家」をいち早く撮影に行ってドキュメンタリー番組を制作したデスポトビッチさんは、セルビア人女性でありながら、長年、セルビア人による戦争加害の調査報道にも取り組んできた記者です。「戦争犯罪の加害者」と、「その加害者の民族」に向ける感情を常に区別してきたと語ってくれました。
長 コソボとIS(イスラム国)の関係を暴いた記者もいましたね。
木村 この件を取材していたスキラーチャさんは若い女性の記者です。アルバニア系コソボ人で、幼いころに父親をラチャク村の虐殺で殺されていました。コソボはヨーロッパ諸国の中で、人口比率で言うとボスニアの次に多くのIS戦闘員を生み出している国です。あるIS戦闘員の故郷としてカチャニックという貧しい地域が有名になってしまいましたが、ISのリクルーターは首都プリシュティナにも200人近くやってきて活動していました。リクルーターによる洗脳だけでなく、貧困を解消するためにISに加わる人も多くいるそうです。
コソボ政府にとってはアメリカの手前、自国民が反米組織に加わっているというのは恥でしかありませんが、スキラーチャさんは自国のスキャンダルを臆せず報道しました。
90年代の旧ユーゴで、紛争や民族間対立に苦しみながらもサッカー代表監督を務めたイビツァ・オシムさんは、「新聞記者は戦争を始めることができる」とおっしゃっていました。報道が時に、民族間対立を激化させうることは事実です。でも、自民族がいかにすごいか、敵がいかに残忍か、ということばかり書くメディアの中にも、気概のある記者はちゃんといたのです。
長 かといって単純な人間賛美では終わらず、『コソボ 苦闘する親米国家』には、紛争の、人間の、光と闇の両面が描かれていました。「黄色い家」に象徴されるような闇はあまりにも深くて濃い。でも、現地取材に同行してくれたアルバニア人の案内人たちは、自分の同胞が犯罪に関わっていたとしても真実を知りたいと言える人たち。そういう光が確実に、いろんなところにあるんだと思わせてくれます。「セルビア人は」「アルバニア人は」と一括りにすることのできない、個々の人々の顔がたくさん見えていました。
日本語で報じることで
長 このように、どの民族にも肩入れしないで、フラットに旧ユーゴの現状を描くことは、欧米ではずいぶん難しいのではないかと思います。
木村 それだけ、欧米ではまだ旧ユーゴへの関心があるということかもしれません。日本では新旧ユーゴのことも紛争のこともほとんど報道されていませんから、知るきっかけさえつかみにくいと思います。
長 ただ、日本の状況には強みもあると思っています。無関心だからこそ、真実を追求する研究を続けられるんです。日本で南京大虐殺や関東大震災後の朝鮮人虐殺の研究をする場合、どれほど事実に即した研究であろうと何がしかの批判にさらされる可能性が常にあります。そのテーマを選択した時点で、本人の意図に関わりなく何らかの政治性から逃れられない。事実を「事実だ」ということが一定の勢力から批判の対象となる。
スレブレニツァ問題を欧米で研究している人も状況は同じです。私の研究をまとめた『スレブレニツァ あるジェノサイドをめぐる考察』も、日本だからこそ、日本語だからこそ、出版できた本だと感じています。
ユーゴスラビア(ユーゴ)紛争
註:ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)が解体する過程で起こった紛争。スロベニア紛争(91年)、クロアチア紛争(91~95)、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(92~95)、コソボ紛争(98~99)、マケドニア紛争(2001)の総称。旧ユーゴは紛争を経てスロベニア(91年独立)、マケドニア(同)、クロアチア(同)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(92)、モンテネグロ(06)、セルビア(同)、コソボ(08)に分かれた。
「スレブレニツァの虐殺」
1995年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部の都市スレブレニツァで、セルビア人共和国軍が多数のボスニア人を殺害した事件。犠牲者数は、戦闘の犠牲者含め7000~8000人にのぼると言われる。スレブレニツァは両軍の武装解除を前提とした国連の「安全地帯」に指定されていたが、ムラジッチ将軍が指揮するセルビア軍が侵攻し占領。住民のうち、主に女性、子ども、高齢者は国連軍基地に避難し、男性はボスニア支配地域を目指してスレブレニツァを脱出した。セルビア軍は避難民をボスニア支配地域に追放するにあたり移送を引き受けたが、この時、避難民の中から男性を隔離し、後に殺害する。また、セルビア軍はスレブレニツァを脱出した兵士を含む男性たちを追撃して交戦。投降してきた者や捕獲した者も数日のうちに殺害した。ムラジッチは95年にICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)に起訴され、指名手配の末2011年に逮捕された。17年11月第一審で終身刑、ICTY閉廷後その機能を引き継いだ国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT)の上訴審で21年6月に終身刑が確定した。
ボスニア紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、これをアメリカなどが承認したことから、ボスニアとユーゴスラビアの軍事衝突に、次いで、ムスリム人、セルビア人、クロアチア人3民族による三つ巴の紛争に発展した。95年にデイトン和平合意によって終結。
コソボ紛争
註:ユーゴスラビア紛争の一つ。1980年代以降、セルビア領内のコソボ・メトヒヤ自治州の自治権を巡り、セルビアとコソボの間には長い確執があった。98年、セルビアがコソボの武装勢力であるKLA(コソボ解放軍)の掃討作戦を開始したことで紛争が開始。99年2月、停戦協議が決裂した後、NATOが国連安保理決議を経ずにセルビア全土を空爆する。3カ月の空爆後、同年6月に停戦合意が成立した。コソボは2008年に独立を宣言したが、セルビアはこれを承認していない。
ICTY(旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所)
註:旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所。国連安保理決議に基づき、1993年5月、オランダのハーグに設置された。1991年以降の旧ユーゴスラビアにおいて、集団殺害や戦争犯罪など、国際人道法に対する重大な違反に関わった人物を訴追する目的で設立された。161人が訴追され、2017年12月に閉廷。その後は、国連の「国際刑事法廷残余メカニズム」(IRMCT、所在地はハーグ)がその機能を引き継いでいる。
『ハンティング・パーティ』
註:リチャード・ギア主演のサスペンス・アクション映画。ボスニア紛争終結から5年後、2000年のサラエボを舞台に、かつての花形戦場リポーターが戦場カメラマンとともに謎多き戦争犯罪者を追跡する。リチャード・シェパード監督、2007年、アメリカ。
ラチャク村の虐殺
註:コソボ紛争中の1999年1月、コソボの首都プリシュティナの郊外にあるラチャク村で、セルビア軍兵士により、アルバニア系住民40人以上が殺害された事件。