2023年10月7日、ガザを実質統治するハマス戦闘員が、イスラエル領内に侵入し、市民・兵士約1200人を殺害した。衝撃を受けたイスラエルは、ハマスに戦争を宣言し、ガザ空爆を開始し、10月下旬にはガザ内での地上戦を開始した。イスラエル軍は、ハマスの排除を目的に掲げている。戦争が終結した後、イスラエルは、ガザとの関係を再構築する必要があるが、その将来の関係は、過去1世紀に及ぶパレスチナ紛争の歴史を踏まえたものでない限り、安定しないだろう。
イスラエルとパレスチナは、長年相手の存在を認めず「当事者なき紛争」と呼ばれた。この状態は、1990年代はじめに変化し、イスラエルとPLOは、お互いに相手を敵として承認し、その敵との交渉を通じて和平を模索する決断をした。しかし、パレスチナ側では、イスラエルの存在を認めず、イスラエル国家の破壊を目標に掲げる組織が残った。それがハマスである。ハマスは、イスラエルとの平和共存ではなく、長期にわたる武力闘争でイスラエルを壊滅させる考えである。
監修:中島勇(中東調査会協力研究員)
パレスチナ紛争前史
1897年 第1回シオニスト会議(→シオニズム)
ユダヤ人のパレスチナ入植が進む。
1914年 第一次世界大戦
パレスチナを支配するオスマン帝国と英仏による戦闘で、パレスチナを含む東アラブ地方が主要な戦場に。イギリスはアラブ、ユダヤ勢力と帝国打倒で共闘する。
1915年 フセイン・マクマホン協定
エジプト駐在イギリス高等弁務官マクマホンが、メッカのシャリーフであるアラブ指導者・フセインに対して、オスマン帝国打倒に協力すれば東アラブ地方にアラブの独立国をつくると約束。約束は、一時棚上げになるが、第二次世界大戦前後までに実行され、現在のアラブ諸国が成立。
1916年 サイクス・ピコ協定
英仏露によって東アラブ地方を分割統治する取り決め。パレスチナをイギリスが統治することに。
1917年 バルフォア宣言
イギリスの外相バルフォアが、ユダヤ人がパレスチナに民族的郷土を建設することに同意した宣言。
1939年 第二次世界大戦
ナチス・ドイツに迫害された大量のユダヤ人がパレスチナへ。
1947年 国連パレスチナ分割決議(決議181)
国連総会で、イギリスによるパレスチナ統治地域を、ユダヤとアラブの2国に分割する決議が採択された。アラブ側が拒否。ユダヤ側は、独立戦争後に拒否。ただ同決議の考え方は、紛争の2国家解決構想として、現在も残る。
イスラエル建国と中東戦争
1948年 イスラエル建国、第一次中東戦争
西岸・ガザ地区
オスマン帝国崩壊後、1922年からイギリスがパレスチナを委任統治した。イギリスは、ヨルダン川東岸をヨルダン王国とした。残りの地域では、ユダヤ勢力とアラブ人(パレスチナ人)が国家創設を主張した。イギリスは、誰に主権を移譲するか決められず、委任統治を放棄し、1948年5月に撤退した。イギリスの統治責任放棄が、その後の紛争を複雑化させた。国連は、パレスチナ分割を決議(決議181)したが、アラブ側が拒否し、イギリス軍撤退後、イスラエルが独立を宣言し、第1次中東戦争(48~49年)になった。この時イスラエル軍が占領した地域が、現在のイスラエル領である。ガザはエジプト軍が、西岸はヨルダン軍が占領した。エジプトはガザを併合せず、ガザの主権は未定状態になり、住民は無国籍になった。ヨルダンは西岸を併合しようとしたが国際的な認知を得られなかった。しかし西岸ではヨルダンの実効支配があり、住民はヨルダン国籍が付与された。ヨルダンは、1988年に至って西岸への法的権利を破棄した。