新薬をめぐる3つの時間差
ドラッグラグとは、海外で作られた新薬がその国で承認されて市場に出てから、日本で使えるようになるまでの時間差をいう。現在のところ、平均で4年(48カ月)といわれている。この間、日本で最新治療を必要とする患者は、世界レベルの薬による治療を原則として受けられず、病気によっては生死にかかわることになる。そこで厚生労働省は、ドラッグラグを解消すべく、医薬品の承認審査機関である医薬品医療機器総合機構(PMDA)の審査官の増員を進めている。しかしPMDAの強化は、一定の効果はあるが、それだけではドラッグラグは解消しないというのが大方の見解だ。
それはなぜか。日本でも欧米でも、新しい医薬品は、多くの新しい化合物の中から動物実験などを経て候補物質を選び出し、治験という実際に人に投与する臨床試験で有効性と安全性を確認し、当局の審査を経て承認を得たのち発売にいたる。
ところがその間には、(1)欧米で治験に着手してから、日本で治験に着手するまでの時差、(2)欧米と日本の治験に要する期間の差、(3)欧米と日本の医薬品承認審査にかかる期間の差、という3つの時間差があり、ドラッグラグが生じるのだ。これらを日本とアメリカの場合で見ると、(1)が22カ月、(2)が19カ月、(3)が8カ月といわれている。つまり、(3)の医薬品の承認審査だけが問題ではないのだ。
むしろ、ドラッグラグの最大原因は(1)であり、この背景には、わが国の医薬品の価格制度の特殊性があるといえるだろう。
原因は日本独自の薬価制度
日本における医薬品の値段は、厚生労働省の機関である中央社会保険医療協議会(中医協)が、公定価格として決めている。2年ごとに見直されるが、特徴的なのは需要供給の関係なしに「必ず引き下げられて安くなる」ということだ。欧米では、医療機関や患者から評価が高い医薬品の価格は横ばい、あるいは徐々に値上げされることが多い。しかし日本では、政府による医療費削減の方針があったため、医薬品の平均価格がOECD諸国の中で最も低い水準で抑制されてきたのだ。一方、日本の医薬品市場は、新薬の特許が切れた後に他のメーカーから発売される、いわゆる後発品(ジェネリック医薬品)が普及していないことも問題化している。
「後発品は品質が悪い」「欧米では後発品の値段は先発品の2~4割程度なのに、日本では7割程度とお得感がない」「国民性としてブランド志向が強い」など、さまざまな理由が挙げられているが、おそらくはすべて当てはまるだろう。
後発品が普及していないため、日本の新薬メーカーは特許が切れても、売り上げダウンを気にせずにすむ。つまり新薬メーカーにとって、日本市場は「特許期間内の値段がとても安く、最初の段階ではあまりうまみはないが、特許が切れた後もずるずると長く稼げる生ぬるい市場」なのだ。そうなれば、次々に新薬を出して、その特許期間中に開発費を回収しなければ経営が成り立たない、というインセンティブが働かないので、日本の中堅製薬企業の中には、画期的な新薬を久しく開発していないのに、順調にビジネスを継続しているところが少なくない。
このような環境下で、外資系の製薬企業はどんな行動をとるだろうか。
近年、薬の開発は複雑化し、その成功率はどんどん低くなっている。そこへもって「何としても早期に発売して、特許期間中に稼がなければ…」という強いインセンティブがなければ、あえて他社と競って失敗のリスクを負うより、「よそが先に開発に着手して成功を確認してから、日本で開発を始めればいいや」と考えるのが普通だろう。つまり、日本の医薬品価格取り決めの仕組みや、市場の特殊性が、治験着手まで2年近くもの時差を生む原因となっているのである。
日本製新薬を日本人が使えない
2009年7月、日本最大の医薬品メーカーである武田薬品工業は、研究開発の本部機能をアメリカに移転した。このままでは、日本の製薬企業が作った世界最新の薬を、日本の患者は使うことができないといった皮肉な状況にさえなりかねない。こうした状況を改善するためには、「日本市場において、新薬を中心とする製薬企業は、新薬を次々に開発して市場に投入できなければ経営が成り立たない」という状態を作ることが重要だ。それには、「特許期間中に開発コストが回収できるような新薬の価格設定」というアメと、「特許が切れたら確実に後発品に置き換わる仕組み」というムチの両方で対応するのが、すでに国際的な常識とされている。
その状況を受けて、中医協では「革新的な新薬の価格は、後発品発売までの間は引き下げず維持し、その後の後発品の発売に合わせ、それまで維持した分の価格を一括して引き下げる」というメリハリの効いた仕組みを検討している。これにより、革新的な新薬を開発してきた製薬企業は、継続的に開発に血眼になるだろうし、それができない企業は一気に苦境に立たされる。おそらく、業界再編が加速されるに違いない。
無論、この新しい仕組みには反対の声も多く、実現するか否かは不明である。ただ新薬を待ち望む患者にとっては、可能性を秘めた糸口であり、審議の行方を注意深く見守っていく必要があるだろう。