日本は感染症輸出の危険国
日本の医療レベルが高いことは、国際的にも異論のないところだ。ところが、感染症対策に限っては、日本は紛れもない後進国である。例えば結核。厚生労働省が発表した、2008年度の人口10万人あたりの日本の結核罹患率は19.4人だった。この数字はイギリスの13.9人(07年統計)を大きく引き離し、先進国の中でダントツのワースト1位。とくに都市部での新規患者数は、罹患率119人(07年統計)のネパールなみともいわれる。結核だけでなく、麻疹(はしか)も悲惨だ。07年に問題が表面化するまで、毎年10万~20万人規模で患者が発生し、根絶に成功したアメリカなどからは「麻疹輸出国」として警戒されてきた。HIVやAIDSの罹患率が上昇しているのも、主要先進国では日本だけだ。
実は、こうした感染症対策の遅れの大きな要因が、ワクチンなのである。
1970年、北海道小樽市で、天然痘ワクチンの予防接種で後遺症を被った市民が、行政機関に損害賠償を求める集団訴訟を起こした(種痘禍事件)。これをきっかけに、国が法律で義務化、または公費助成してきた他のワクチンについても、健康被害賠償訴訟がくり返されるようになった。国の敗訴が相次ぐ中で、ワクチンの副作用における健康被害の危険性が強調され、予防接種の実施率は急速に低下。感染症対策を担う行政機関も、ワクチンに対し、次第におよび腰になっていったのである。
ワクチンをめぐる日米の差
こうした問題は、日本だけのものではない。1976年、アメリカではインフルエンザワクチンの副反応に由来するギランバレー症候群が多発して、社会問題となった。しかし、アメリカが日本と違ったのは、約10年におよぶ議論を経て、ワクチンのための社会的基盤を確立したことだ。88年、ワクチン被害補償制度(VICP)を設け、健康被害が発生した人に、十分な補償を約束した。以来、被害者は国やメーカー、医療関係者の責任を追及しない代わりに補償を受けるか、補償を拒否して訴訟を起こすか、どちらかを選択できるようになった。ちなみに補償金の財源は、ワクチン1本につき75セント(約75円)上乗せされた税金でまかなう。接種を受ける人が、相互扶助の保険をかけるわけだ。
VICPが整備された結果、アメリカの製薬企業は、虚偽申告や隠蔽などをしなければ、訴訟リスクを回避できるため、ワクチン開発を加速させていった。対照的に日本の行政機関は責任逃れに終始し、開発はもとより、普及にも背を向け続けてきた。ワクチン接種をしなければ、副作用は出ない。国が訴えられることもなくなる。しかし健康被害の発生数よりもずっと多くの人が、ワクチンで回避可能な感染症にかかってしまうのだが…。
日本では、76年の麻疹・風疹2種混合ワクチン(MR)を最後に、過去34年間、定期接種に新たに組み入れられたワクチンは何もない。新ワクチンの承認も、87年に開発された水痘ワクチン以来、2008年まで一切行われなかった。この間、世界では肝炎ワクチン、ロタウイルスワクチン、帯状疱疹ワクチンなどのワクチンが次々と開発された。いずれも多くの国で承認を受け、今や大半が公費で接種できるという。
ワクチン市場の急変化
これまで日本のワクチン開発は、化学及血清療法研究所(化血研)や、大阪大学微生物病研究所など、町工場規模の小さな非営利機関が担ってきた。厚生労働省は「ワクチン開発はもうからない」と主張し、これらの組織に補助金や研究費をつぎ込んでいる。つまり日本のワクチン業界は、護送船団方式で維持されてきたといえる。ところが、ここへ来て状況が変わってしまった。1990年代に各国の製薬企業がドル箱としていた生活習慣病の改善薬が、薬害事件の頻発で、アメリカ食品医薬品局(FDA)から承認されなくなったのだ。困った製薬企業は、次の投資先にワクチンを選んだ。現在、ワクチンの年間市場成長率は16%にのぼる。開発の中心は、フランス、イギリス、スイス、アメリカなどのメガファーマーである。
その結果、ワクチン開発は急速に進歩した。従来の鶏卵に代えて、細胞を使ってウイルスを培養することで、大量生産が可能になった。近年では、画期的な子宮頸がんワクチンも開発された。日本のような小規模メーカーでは、もはや対抗しきれなくなっているところに、今回の新型インフルエンザの世界的大流行が起きた。
病根はワクチン行政の腐敗
メガファーマーのおひざ元であるイギリス、アメリカ、フランスなどの政府は、全国民分のワクチン確保に専念し、接種方法などは医療現場に任せた。日本政府はワクチンの接種順位や回数などをくり返し議論した揚げ句、新型インフルエンザワクチンを定期接種にしなかった。国は今回も訴訟リスクを回避するつもりだったのだ。2009年12月、新政権が新型インフルエンザ特別措置法を公布し、遅ればせながら補償制度は整備されたが、予防接種があくまでも任意契約で、費用は国民負担であることには変わりない。ワクチンの不足問題も未解決だ。国内メーカーによるワクチン供給量は、当初から2700万人分と発表されていた。全国民分にはほど遠い。しかし、担当行政機関の厚生労働省には、積極的に外国産ワクチンを輸入しようという動きはなく、逆に「輸入ワクチンは危険」というネガティブキャンペーンを始めた。これは一体なぜなのか。
自由民主党の麻生政権は、国内のワクチンメーカー育成を名目に、1200億円もの補正予算を計上していた。外国産ワクチンの承認審査員には、輸入解禁で利益損失のおそれがある国内メーカー関係者が含まれている。要はこうした水面下の利害により、厚生労働省は備蓄不足を予見しながらも、国内メーカー保護に必死だったのである。
彼らに気の毒だったのは、今回の一連の顛末が、明るみに出てしまったことだ。多くの国民は、ワクチン行政の病根を実感した。アメリカから遅れること30年、ようやく日本においても、ワクチンに関する国民的議論を始める機が熟したのではないだろうか。
ギランバレー症候群
筋肉を動かす運動神経に炎症が起こり、手足の筋力が急に低下して、弛緩性の運動まひや様々な神経症を伴う病気。10万人あたり年間1~2人が発病し、日本では指定難病(特定疾患)に認定されている。 ワクチンによって活性化した免疫抗体が、運動神経を攻撃することでも起こる。
定期接種
日本における予防接種の実施形体の一つで、社会的流行を防ぐ目的から、自治体が公費助成をして受けられるもの。ワクチンの副作用などにより、健康被害が発生した場合は、予防接種法によって救済制度が規定されている。これに対して、自己負担による予防接種を任意接種(にんいせっしゅ)という。
新型インフルエンザ特別措置法
新型インフルエンザ予防接種による健康被害の救済等に関する特別措置法。新型インフルエンザA-H1N1ワクチンの副作用などで、健康に問題が生じた人を救済するための法律。認定された健康被害者に対し、医療費、医療手当、障害児養育年金、障害年金、遺族年金または遺族一時金、葬祭料が給付される。