ゲノムをめぐる世界勢力図
近年、個人の遺伝情報に基づき、病気の治療や予防方法を調整する、個別化医療の発展が目覚ましい。デファクトスタンダード(事実上の標準)に向けて、世界がしのぎを削る中で、競争を主導するのはアメリカのバラク・オバマ大統領だ。上院議員時代の06年、「ゲノムと個別化医療法案」を提出し、大統領就任後はアメリカの国立衛生研究所(NIH)のトップに、フランシス・コリンズを登用した。コリンズは、先進各国が国際協力のもとで推進したヒト・ゲノムプロジェクトのリーダーを務めた医師であり、遺伝学者である。かつて、ヒト・ゲノムプロジェクトは30億ドルの予算を使い、13年間かけてヒトの全遺伝子情報を解読した。しかし、その後はゲノム・シークエンス解析技術の進歩が、個別化医療を加速させている。最新器機を用いれば、個人のゲノムをわずか数時間で解読でき、コストも数年以内には数万円まで低下するといわれている。
実は、日本は長年にわたり、世界のゲノム研究をリードしてきた。個々の体質の差を生む遺伝情報の違いを調査した国際ハップマップ・プロジェクトでは、理化学研究所が研究全体の25%に貢献した。ところが、最近は中国が猛追している。10年10月時点で、中国は最先端のゲノム・シークエンサーを127台保有し、フル稼働である。日本の保有数は21台。中国はおろか、28台の韓国の後塵を拝し、20台の台湾と同レベルである。
最先端シークエンサーの保有数は、日本の科学研究への投資の少なさを象徴する。投資不足のツケは、子孫がドラッグラグ(海外で使われている新薬が、日本で承認されて使えるようになるまでの時間差)や医療水準の低下として払うことになるだろう。
情報処理でリードするアメリカ
ゲノム研究の進歩は様々なビジネスを生み出している。アメリカの23 and MEという会社をご存じだろうか。同社のサービスを利用すれば、糖尿病やがんなどへの罹りやすさから、先祖に関する遺伝情報までを、400ドル程度で調べることができる。このサービスは、すでに多くの日本人も利用しているようで、「私には著しく腰痛になりやすい遺伝子がある」「母方の祖先はヨーロッパ、アジア、北アフリカ出身」といった体験談を載せたブログも増えた。分析はかなり専門的で、医師の評価も高い。
では、誰がこのような会社を作ったのか。実は、この会社の親会社はアメリカのグーグル(Google)だ。
ゲノム情報にもとづく個別化医療であるゲノム医療が普及するには、患者が自分の情報を管理するための情報システムの整備が必須だ。そうなると、ITや通信産業にとっても、大きな成長分野となる。すでに、マイクロソフト(Microsoft)は電子カルテ業界に参入しており、携帯電話を使った健康サービスも普及しつつある。グーグルが遺伝情報を押さえることで、どのようなビジネスが可能になるかは、容易に想像がつく。
21世紀に入り、先進国の最大の関心は健康だ。健康情報の流通は、新たな「ライフライン」になる可能性が高い。そのシステムをいち早く確立すれば、世界をリードすることができるだろう。ゲノム医療は、先進国が成長を期待できる、数少ない分野なのだ。
しかし、個別化医療の推進には、ゲノム解読技術だけでは不十分だ。大量の情報を処理する情報機器と、人材育成が必要だ。アメリカは、こちらにも余念がない。03年にヒトゲノムが全解読された直後、NIHは「医科学研究のロードマップ」を発表し、「生物学は、情報処理の科学へと、急速に変化しつつある」と断言した。
スパコン開発で追う中国
個人のゲノム情報は、付加情報も合わせると、約200ギガバイトの容量となる。これは標準的なパソコン1台に記録できる、ぎりぎりの容量だ。実用化を考えれば、大規模データの保存システムと、それに直結した大規模メモリー、高速CPUを備えたスーパーコンピューターの利用体制が必要になる。アメリカはスパコン開発に巨額の予算を計上し、世界のトップを独占している。かつての日本のお家芸も、アメリカに奪われて久しい。この競争に割り込んだのが中国だ。10年11月、スパコン「天河1号」が、計算速度で世界一となったことが報道された。中国関係者は、スパコンの利用は、気象や医学研究と明言している。とはいえ、ゲノム情報応用の流れは、医療だけに限らない。教育、スポーツ、美容領域などへの応用が進みつつある。
例えば、中国国家戦略企業の一つである上海バイオチップコーポレーションは、ゲノム情報を子どもの教育や職業選択に利用するサービスを提供している。これは日本でも報道され、多くの親たちの知るところとなった。日本にも代理店が存在し、多数の問い合わせがあるという。教育分野以外でも、スポーツ、美容分野などでもゲノム情報を取り入れた新しいサービスが開発中である。
果たして日本は巻き返せるか
世界の多くの国は、国をあげてゲノム研究を推進している。一方、日本の足並みはそろっていない。例えば、日本はヒト・ゲノムプロジェクトで5%程度の貢献をしたが、当時、アメリカのビル・クリントン大統領が協力国の名を読み上げる際に、日本を言い忘れた。これは、日本政府の根回しの失敗だ。また、07年、国際ハップマップ・プロジェクトにおいて、日本は世界をリードしたと国際的に評価されたが、科学研究の司令塔である総合科学技術会議の、ゲノム研究に対する評価は低かった。例えば、09年に麻生太郎政権が2700億円の補正予算をつけた最先端研究開発支援プログラムでは、ゲノム関連の課題は採択されなかった。
そのツケが、現在の「ゲノムラグ」ともいえる状態を生み出した。
遅ればせながら、日本もゲノム研究に重点を置き始めている。10年、総合科学技術会議は、ゲノム研究をライフサイエンス分野の優先課題に決めた。また、11年1月、内閣官房に設置された医療イノベーション推進室の室長には、ゲノム研究のリーダーである中村祐輔東京大学医科学研究所教授が任命された。仙谷由人前官房長官の強い意向が働いたという。
果たして、日本は巻き返せるか。これからが正念場だ。