生活保護受給は本当に気楽か
生活保護が何かと話題になっている。喫茶店で仕事をしていると、こんな会話が聞こえてくることもある。「生活保護って、働かなくても12万とかもらえちゃうんだろ? いいよな。働くのがバカらしくなっちゃうよな。おれも受けてーよ」
……よく聞くボヤキだが、実際に生活保護をもらうために仕事を辞めた、という人を私は知らない。なんでだろう?
生活保護は、相談や申請の段階で役所が行う「ミーンズテスト(資産調査)」という高い代償(コスト)を支払わないと得られない。だから冗談半分にボヤくことはできても、実行に移すことはできない。結局それは「おれの給料、もうちょっとあげてくれねーかな」というボヤキの言い換えにすぎない。雇い主(自分より強そうな者)にそれを言えないような根性ナシが、ミーンズテストという高い代償を支払ったうえで生活保護を受けるに至ってしまった人たち(自分より弱そうな者)をおちょくっているだけであり、惰弱さの表れにすぎない。
ミーンズテストでは、所得はもちろん貯金(資産)も全部チェックされる。すべての通帳を見せる必要があり、銀行に照会もかけられる。自動車は所持することはもちろん、借りて運転することも許されない。親族も親・兄弟・祖父母・子どもにまで「あんた家族でしょ。面倒見られないの?」という連絡が行く。よく言われるように、生活保護は自分のプライバシーをすべてさらし、丸裸にならないと受けられない。
だから「おれも受けてーよ」などという戯言には「受ければ?」と返すしかない。それで生活保護受給者が増えることはない。
もともと働ける年齢層が対象
「働けない人はともかく、働ける人が生活保護を受けるなんておかしい」という言い方も多い。「おかしい」という言葉の意味が、「制度は本来そうなってないはずだ」という思い込みから来ているのであれば、それは誤解だ。生活保護という制度は、もともと「働ける層(18~64歳。稼働年齢層とも言う)」を対象に想定している。2011年11月には、同年7月の生活保護受給者が205万人となり、1951~52年の戦後混乱期の数字を超えたことが大きく報じられた。では50年代初めの頃、誰が生活保護を受けていたかと言えば、実は6割近くが「働ける層」だった。60年代の高度経済成長期以前は、働いても生計を立てられるだけの稼ぎ(所得)を得られなかったから、働きながら生活保護を受けている人も少なくなかった。つまり、生活保護という制度はもともと、「働ける層」を対象にした、ワーキング・プアの生活保障制度だった。
また、生活保護受給者のなかに「働ける層」が近年増えてきたことを捉えて、「年越し派遣村」の活動のせいで制度が変わったかのように言う人がいるが、無知というほかない。
たしかに、北九州市で生活保護申請の受理を拒否された男性が餓死した2006年の事件や、派遣切りによって住む場所を失った人々を支援するために同年末に日比谷公園で行われた「年越し派遣村」の頃まで、「働ける層」は長らく生活保護行政から排除されていた。それは「水際作戦」と呼ばれた。生活保護を受ける条件を満たしている人が来ても、もっと仕事を探してから出直してこいとか、書類が足りないとか言って、申請させなかった。制度上は生活保護を受けられる人を運用上追い返していたわけで、制度上どちらがおかしいかと言えば、受けられる人を排除していたほうがおかしい。
だから、「派遣村」以降は正しくない運用が正されただけだ。そうしたら、これまで切り捨てられてきた「運用上排除されていた人たち」が生活保護を受けるようになり、「働ける層」の受給者数が増えた、というのが事実だ。
バッシングは自分の首を絞めるだけ
すると今度は「働ける人も受けられることになっている制度がそもそもおかしい」という言い方が出てきた。だから、生活保護法を改正する必要があるのだという。1950年代初のワーキング・プアたちが生活保護から抜けていったのは、50年代後半から始まる高度経済成長期に賃金が急上昇したからだ。65~70年の「いざなぎ景気」の際には5年間で賃金が1.7倍になった。今の感覚で言うと、月給20万円の人の給料が5年後に34万になったということだ。これは「稼ぎ頭」の話ではなく「平均」である。こうして、多くの人たちが生活保護基準以上の所得を得られるようになり、「自立」していった。
ところが90年代以降、今度は多くの人たちの雇用が不安定化され、賃金も減少した。2002~07年の「いざなみ景気」の間も、民間の給与総額は減少していた。現在、年間を通して働いている労働者の4人に1人は年収200万円以下。これで「働ける層」の生活保護受給者が増えなかったら、そのほうが不可思議だ。
ところが、そうした背景や原因とは関係なく、とにかく「受給者数が増えたから減らせるように法改正すべきだ」と言う。実際にそれをやったらどうなるか? 死人が出る。すると今度は「なんてひどいんだ、血も涙もない」という「世論」が起こる。北九州餓死事件のときみたいに。それでまた制度か運用を変える。そうすると「不正受給者がいっぱい」というキャンペーンが始まる。また「絞り込め」という声が高まる……。生活保護の歴史は、この繰り返しだった。それをまた繰り返そうとしている。何十年もかけて、ほとんど進歩がない。まったくおめでたい話だ。
次には「だからといって、グローバル競争の中で、賃金は上げられない」と来る。安い賃金で働く新興国の労働者と競争するためには、日本の労働者の賃金はもっと安くしなければならないのだ、と言う。
だったら賃金(収入)が上がらなくても暮らしが成り立つように、社会保険料を下げたり、公共サービスの拡充によって子育てや教育費用の家計負担を軽くしたりするなどして、各世帯が必要とする生活費(支出)を抑える方向に行くかと言うと、それに対しても、少子高齢化が進むから社会保険料は上げなきゃいけないとか、自分は苦労して子育てしてきたのに今の世代だけ優遇するのは不公平だとかバラマキだとかで、批判が強い。ましてやこれ以上の国債発行なんてできないし、かといって増税なんてとんでもない、とくる。
賃金(収入)上げるのもダメ、生活費(支出)下げるのもダメ、けど生活保護は絞り込めとなると、結局、自分の生活費を稼げない人間は死ぬしかないということになる。実際にネットの世界では、そんな意見が飛び交っている。もちろんみんな匿名だ。だが実名の世界でも、口ではっきりとは言わないが、ほのめかされているのは同じ結論だろう。
でも実際に人が死に始めたら、またみんな「なんとかしろ」って言い出す。その死は、自分じゃなくて他の誰かの責任だと言い出す。そうしてまた、同じサイクルが始まる。そうした動きに翻弄されて低所得者層が疲弊していき、餓死や心中といった不幸な事件も起こり、日本社会が停滞し、閉塞感が広がっていく。自分の首を絞める、とはこのことだ。
もういい加減、この不幸な連鎖を断ち切らなければならない。