ワクチンは予防から治療へ
ワクチンは細菌、ウイルス、毒素など、ヒトや動物の体内に入ると病気を発症させるような病原物質に人工的な処理を加え、病原性を残したまま力を弱めたもの。これを私たちの体に投与すると、体内で免疫機能が構築され、その後の感染に対して抵抗力が獲得できるようになる。1796年、イギリス人医師のエドワード・ジェンナーが、死病と恐れられていた天然痘の研究を行う中で牛痘種痘法を発明し、以来、インフルエンザワクチンに代表されるように、病気を予防するための医療としてもっぱら用いられてきた。したがって、ワクチン接種は通称「予防接種」とも呼ばれている。ところが近年、これまでの予防医学とは発想の違う、「病気を治療するためのワクチン」が次々に開発されるようになった。これらのワクチンは治療用ワクチン、または次世代ワクチンと呼ばれ、従来の感染症のほか、がん、中枢神経系疾患、アレルギー性疾患、循環器疾患、糖尿病などの内分泌・代謝疾患までもが治療領域とされている。2011年までに臨床試験に入っている治療用ワクチンは100種を超え、10種類以上が最終段階にある。
臨床試験や研究の進み具合では、アメリカが他国を圧倒している状況で、日本の製薬会社はやや出遅れ感がある。しかし、01年に研究に着手したスギ花粉症治療ワクチンを先頭に、追撃が今後進むと考えられる。
日本の最先端ワクチンとは
花粉症という病気はご存じのように、突然発症するアレルギー性疾患で、今のところ効果が高い根本的治療法はない。そのため主症状である鼻水やくしゃみ、症状を緩和するために飲む抗ヒスタミン薬の副作用によっても、勉学や就業に支障をきたすケースが相次いでいる。日本における患者数は、実は正確には把握されていないが、08年に行われた鼻アレルギー全国疫学調査によると、調査対象のうち花粉症を有する者は29.8%であったと報告されている。日本で研究されているスギ花粉症治療ワクチンは、減感作療法という、花粉が侵入してもアレルギー原因物質が体内で産生されないようにするメカニズムを応用し、スギ花粉症の根本治療をめざすもの。スギ花粉に備わった、免疫の過剰反応を起こさせる成分(アレルゲン)を、遺伝子技術で人工的に作り上げたハイテクワクチンだ。これを少量ずつ投与すると、やがて抗体の過敏性が低下し、アレルギーが起こりにくくなる。
マウスを使った試験では、すでに高い効果が確認されており、臨床試験での有効性が期待されている。
ワクチンでがんを治療する!
世界的に見ると、現在開発中の治療用ワクチンの中で、最も期待されているのは、がんの治療薬だ。10年には、初のがん治療用ワクチン「プロベンジ」(一般名シプリューセル-T)が、前立腺がんを対象疾患としてアメリカ食品医薬品局(FDA)に承認された。ほかにも、複数の臨床試験が行われている。がんは正常な細胞が、何らかの原因で悪性腫瘍化する病気。がん細胞も、それ以外の細胞も、等しく患者自身の細胞であるため、がん細胞だけを特定して抗がん剤で攻撃することはとても難しく、どうしても正常細胞まで傷つけてしまう。それが、抗がん剤による副作用の原因となっていた。
ところが遺伝子技術の進歩によって、正常細胞と、がん細胞とのちょっとした遺伝子の違いが発見され、その部分を攻撃対象とするワクチンを作ることができた。それが、がん治療用ワクチンと呼ばれるものである。
今日までに、肺がん、前立腺がんなどを対象疾患とした治療用ワクチンが開発され、臨床試験が実施されている。12年には、開発競争の先頭に立っていた日本のベンチャー企業のすい臓がん治療用ワクチンが、臨床試験の最終段階で治療効果が認められず中止となるハプニングもあった。しかし、がん治療用ワクチンは作用部位が数多くあるため、今後も別のメカニズムでの試験が期待されている。
遺伝子ワクチンへの期待
最近、データが発表されたものではニコチン依存症治療用ワクチンも、その画期的効果が注目されている。今はまだマウスでの実験段階だが、1回投与するだけでニコチンに対する抗体が体内で作られる。その後は、喫煙によってニコチンが体内に入ると、抗体が結合し、脳に到達するのを防ぐ。その結果、依存症が治療できるのと同時に、心臓へのニコチン到達も防いで、喫煙による心疾患も予防してしまう、というものだ。マウスの血液中ニコチン濃度を15%にまで低下させることができ、たばこの習慣性を抑制することが期待される。このワクチンはDNAワクチン(遺伝子ワクチン)と呼ばれ、病原物質を弱めて体内に入れるのではなく、病原物質から免疫反応を起こさせるDNAだけを抽出して、ワクチンとして使う。治療のために攻撃すべき対象を、ピンポイントで免疫系に伝えることが可能となり、従来のワクチンより強力な抗体を作ることができる、と考えられている。
HIV感染症(エイズ)、筋萎縮性側索硬化症(ALS)、マラリア、アルツハイマー型認知症など、現時点では治療が難しい病気も、その原因が遺伝子レベルで解明されつつあり、その結果、生体を構成するたんぱく質や遺伝子に注目した、次世代の治療用ワクチンの開発へと進展している。これらの難病を根本から治療するワクチンも次々に考え出され、そのいくつかでは患者を対象とした臨床試験が行われている。
ワクチンの投与方法も、既存の注射薬から、飲み薬、貼付(ちょうふ)薬、噴霧薬など患者の負担の少ない方法を開発中だ。今後、動物実験などで効き目や安全性を確かめなければならないものの、そう遠くない将来には、今まではあきらめなければならなかった病気も、ワクチンで苦痛なく治療できるようになることが期待されている。