東日本大震災とそれに伴う原発事故から、はや3年が経った。しかし、「事故当初から事態はほとんど改善されず、現地福島では、今もなお無用な放射線被曝(ひばく)を強いられながら人々が暮らしています。
時を追うごとに、人々の不安は広がり、そのことが被災住民の亀裂を作る要因ともなっているのです」と福島大学行政政策学類・荒木田岳准教授は語る。自ら除染活動を行い、脱原発ではなく“脱被曝”を掲げ、全国各地で講演を続ける荒木田氏に、分断と亀裂によってひき裂かれていく福島の人々の現状をつづっていただいた。
“逃げ遅れた”はずが、いち早く避難した側に
福島大学(福島市)に職を得て、やがて11年になろうとしていたその日、私は、大学の宿舎の4階で東北地方太平洋沖地震に遭遇した。建物は倒壊しなかったもののライフラインはすべて止まった。息子を保育園に迎えに行く車内で、福島原発が「安全に停止した」という短いニュースを聞いたこともあって、愚かにも建屋の爆発を知るまで事故のことはまったく頭になかった。夕刻から避難所に移動し、寝苦しい一夜を過ごしていた。
翌日の日没後、妻に「これから避難します」という友人からの電話が入った。1号機の建屋が爆発したことを、水くみや買い出しに奔走していた私たちは知らなかった。瞬時に事態の重大さを悟ったものの、すでに爆発から4時間が経過していた。どうりで夕方から避難所の人数が激減していたわけである。
幸い、妻の機転によって満タンだった車で、停電で真っ暗な街を抜け、米沢市経由で妻の実家のある新潟市へと向かった。原発事故の際には、風の運ぶ放射性物質を避けなければならないことをたまたま知っていたからだ。「西高東低」の季節なので、分水嶺を越え日本海方面に向かえば被曝の確率は低減するはずだという直感が働いた。“逃げ遅れた”身としては、渋滞に巻き込まれることを覚悟したが、道路上に車の姿はほとんどなく、その日のうちに新潟市に到着できた。福島市のスーパーでは震災翌日に店頭からすべての商品が消えていたが、新潟には何も変わらない日常があった。
その後、ニュースやインターネットで事態の深刻さを再認識した。事故のことだけではない。原発の制御不能は誰の目にも明らかなのに、ニュースでは楽観論を繰り返し報じていたからだ。さらに、深刻な事態が発生する危険性があるのに、その対応について政府もマスコミも何も語らず、来るべき事態にどう備えるかを説明するような専門家は、ついにテレビに登場することがなかった。
そして、嫌な予感は的中した。学生や同僚の半数以上が福島市に残っていたのである。逃げ遅れたはずの自分は、実際には早々と避難した側だったのだ。
震災直後から始まっていた人々の分断
その後、学生と同僚を電話で説得する日々が続いた。それに応じて避難した人もいれば、屋内退避した学生もいた。学生が福島にとどまった理由には、政府の安全宣伝があったようだ。そうでなくとも移動手段をもたない学生が多かった。「学生が残っているのに、自分が避難することはできない」と遠回しに、あるいは、「戻ってこい」と電話で直接非難してくる同僚も一部いた。すでに、人々の分断は始まっていたと言える。
一方で、「帰省」バスをチャーターし、新幹線の動いていた那須塩原、新潟、山形、盛岡の各駅へと学生を運んだ同僚もいた。避難したい大学関係者には添乗の仕事を、避難した者には出迎えの仕事を作った。自らは高い放射線の環境下にありながら、こうした配慮を欠かさない同僚に、向ける顔もなかった。
3月16日の朝、原発から約60キロ離れた福島市でも通常より桁違いに高い放射線が検出されていた。そんな状況下、大学は通常業務を再開し、3月末には「ゴールデンウイーク明けの授業再開」を決めた。同じ頃、福島県が線量計測もせずに4月上旬に県内の小中学校の授業再開を決定したことは、さらに理解しがたかった。学生たちを危険にさらすことに加担すれば絶対に後悔すると悩んだ末、学類長に辞職を申し入れたが、やんわりと慰留された。内心ホッとしたのは事実である。福島に買った土地のローンも残っていたし、辞職後の生活のあてがあるわけでもなく、慰留されることをどこかで期待していたのだと思う。結局のところ、決定責任を学類長に転嫁したわけである。
この「他人に判断や決定を依存する」という自治体や被災者の振る舞いが事故対応のまずさを助長していると、いら立ちを感じていただけに、同じ轍(てつ)を踏んでいる自分に言いようのない嫌悪を覚えた。同時に、この痛烈な嫌悪感がその後の活動の原動力になっているとも言える。
拡大する分断をもたらしたのは何か?
テレビでは相変わらず不毛な科学論争が続けられていた。これまでのデータや経験からは予測不可能なことが多く、隠ぺいされるデータや情報も多かった。そんな不確実な中にあって、事故直後から、政府の「福島は安全である」といった趣旨の発表が度々なされたことは実に不幸なことであった。その言葉にすがり、被曝しながら暮らす生活を選んだ人が少なくなかったからだ。やがて、避難者に対し「神経質だ」「利己的だ」「甘えている」と言う人も出てきた。こうした福島にとどまった人と避難した人の間の分断は、その後ますます広がりつつある。福島で復興に向けて頑張っている人々を英雄視することには、避難したいという気持ちを削ぎ、あるいは避難した人に後ろめたさを感じさせる意図が働いている気がしてならない。
また、放射線リスクをどこまで許容するかが争点化した途端、福島では、その評価をめぐって意見の対立が顕在化した。被曝の危険を憂慮する発言に対しては、「リスク管理の専門家でも、放射線の専門家でもない人間が軽々に発言する理由がわからない」、つまり「黙れ」という言葉が投げつけられた。その多くは匿名だ。「我慢の時には誰かが重荷を背負う取り組みが必要」などという、被曝強要ととれる発言さえあり、福島県民の基本的人権が守られていないことを痛感した。
政府が、当初は距離を、次に線量を基準として避難区域を決めたことで、避難区域の住民は“ふるさと”を失い、区域外の避難者は“賠償”を失った。同じ被害者でありながら、一方は「俺たちが本当の避難者だ」と言い、他方は「賠償金をもらえていいね」という関係では、連帯できるはずもない。「ふるさとを失った者同士」という感覚や、「どちらも賠償を受けて当然」という理解がいつまでももてないことは、一方的な線引きがもたらした負の産物である。さまざまな分断を乗り越えて、どうしたら福島県民が建設的な議論をし、理解を深め合うことができるかは、今もなお課題であり続けている。
分断を乗り越えるには
福島をめぐる「分断」が語られて久しい。しかし、そこに潜む問題も併せて考える必要がある。分断という言葉は、分断があってはならないという前提で語られる。つまり、一枚岩になれという主張を内包している。それは、明示的にそう言わなくても、少数意見に対して「沈黙せよ」という効果をもつ。しかし、この同調圧力は、目的とは裏腹に、かえって人々の心を離反させていく。県外避難者が福島には戻れないと感じる理由は、多様な考え方を認めない「復興」一本の政策が福島を支配しているからでもあろう。
こうした事態を乗り越えるためには、地域に存在する多様な意見や主張を粘り強く調整していく努力が必要である。また、特定の人々が放射線にさらされながらの生活を強いられているという問題がある以上、この問題の解決も同時に進める必要がある。それは、福島県内に限らず、関東東北地方の広い範囲に存在する汚染地域に共通する問題であり、ひいては、現在もなお避難生活を強いられている14万近い人々の問題でもある。
このように、原発事故がもたらす災厄は、健康不安にとどまらず、社会の崩壊という問題に至るまで広範で多岐にわたっている。