そのことの深刻な意味は、後年になって初めて、つまり手遅れになって初めて、わかるのであろう。
“脱原発”ではなく、“脱被曝”をめざす
私が被曝への不安を抱きつつ、「放射能除染・回復プロジェクト」に早期から参加し除染活動に合流したのは、放射線量の高い通学路を毎日通う子どもたちがいたからだった。
また、自分の子どもを避難させている身の、せめてもの罪滅ぼしでもあった。しかし、こうした除染活動に対し、「市民の不安をあおるから無用」との声が聞かれた。
ところが、放射性物質による汚染が誰の目にも明らかになった頃から、今度は「除染すれば住める」というキャンペーンが始まった。太宰治が、第二次世界大戦後、人々が一転して「民主化」に向けて起こした総雪崩現象に接して、「あほらしい感じ」と記した実感がわかるような気がした。隠せるときには隠し、隠しきれなくなったときには「取り除けば大丈夫」という。一貫性の欠如を指摘されれば「除染は不要だが、住民の心配を取り除くためにやっている」と説明するのだから。
結局、さまざまな理由をつけながら、一方的に線引きされた避難区域の外側の住民は、原発事故から3年もの間、現地に留め置かれている。そこでは、工場生産は事故前の状態に戻らず、農業の再建見通しも立たないままで、そのことが現地の自己責任として放置されている。安全性が不確実な中で農業をさせられ、産品が売れ残れば、消費者の無理解のせいにされる。こうして、福島抜きの「復興」論が語られ、現地の人々は放射線に対する不安と、先の見えない生活に苦しみながら暮らしている。そこでの生活は、疑心暗鬼によって殺伐とし、議論するのにも疲れ果て黙り込んでしまっているのが実情だ。
こうした事態を作り出しているのは、一方的な避難区域の線引きと、それに基づく区域外の汚染地域での被曝強要にほかならない。真っ先にしなければいけないのは“脱被曝”なのだ。だから、何度でも問いたい。
「あなたは被曝強要を支持しますか、それともそれに反対しますか?」