誰も逆らえない「世間」の空気
2015年1月に起きた「『イスラム国』人質殺害事件」で、殺害された後藤健二さんの親族が、後藤さんが設立した会社のホームページに公開した「日本政府及び各国政府並びに国民の皆様へ」と題された声明の冒頭で、「この度は、後藤健二が世間をお騒がせすることとなり、大変申し訳ございません」と謝罪している。後藤さんは犯罪をおかしたわけではない。ジャーナリストとして、シリアで危難に遭遇した被害者にすぎない。しかし、「世間をお騒がせ」したから親族は謝罪しなければならないのだ。こんなことは、日本以外のどこの国でもまずありえない。背景にあったのはネットを中心とした、「自分で責任を取れ」という「自己責任論」にもとづく、「世間」の「いやな空気」の広がりである。そうなるのは、明治期の近代化のなかで、日本は科学技術や政治制度の近代化には成功したが、人的関係の近代化を実現できず、「世間」という伝統的な人的関係が連綿と残ってきたからである。日本は先進工業国のなかでは、唯一、異様に古いものをたくさん残している不思議の国である。
それゆえ困ったことに、こうした「世間」の空気には誰も逆らえない。空気に逆らえば「世間」から排除され、徹底して孤立することになるからだ。そこには、『空気の研究』(1977年)で日本にはびこる同調圧力を分析した山本七平のいう「抗空気罪」があり、これに反した場合には、最も軽い場合でも共同体での付き合いをほぼ絶たれる「村八分」(今でいう「ハブる」)の刑に処せられる。それは法的な強制ではないし、成文化されているわけでもない。それでも日本人は「世間を離れては生きていけない」と固く信じているために、空気に反することなど誰もできないのだ。
空気を読んで萎縮する表現の自由
いまこうした「世間」の「いやな空気」が、日本全土を覆い始めている。問題なのは、それらが、政権なり誰かなりに「上から」明確に命令されたわけでもないのに、「下から」空気を読んで、作家辺見庸のいうように、忖度(そんたく)や自己規制、自粛というかたちで、真綿で首を締めるようにじわじわと同調圧力を強めていることだ。たとえば14年7月さいたま市の公民館で、サークルが選んだ「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句が、毎月発行する「公民館だより」の俳句コーナーへの掲載を拒否される、という問題が起きた。公民館側の拒否の理由は、「“九条守れ”というフレーズは、憲法を見直そうという動きが活発化している中、公民館の考えであると誤解を招く」ということらしい。
これによれば、公民館側の掲載拒否の決定は、「憲法を見直そうという動き」という「世間」の空気を読んだ上での判断だったことがわかる。だが、9条をめぐる問題でいろんな意見があるのは当たり前で、自由で多様な意見表明への公権力の干渉をきっぱりと制限しているのが、憲法21条の「表現の自由」であることは明白ではないか。しかも公務員には、21条を遵守(じゅんしゅ)する「憲法を尊重し擁護する義務」(99条)があるはずなのである。
公民館の担当者の頭からこうしたことがまるで欠落しているように見えるのは、彼らも「世間」の一員であって、「世間」は権利や人権の上位にあり、それらを一切認めないという本質を持つからだ。しかも担当者は、自分に与えられた仕事を、どこからも文句やクレームが来ないように、真面目に忠実にこなしただけだと考えているはずである。「世間」の空気を読み、この俳句を掲載した場合に、職場に右翼の街宣車がきて騒ぐかもしれない。あるいはネット上でネトウヨにたたかれるかもしれない。そうなるとこれは自分の責任になる。そう考えたはずである。
ふつうの職場で、ふつうの人間が、「世間」の空気を読み、どこからも文句やクレームが来ないように、自分の仕事を真面目に忠実にこなしてゆく。なんてことはない。ただそれだけのことである。だが、こうした日常的営為がコラージュのように積み重なって、忖度や自己規制や自粛というかたちで、いつのまにか自由な表現が抑圧され、気がついたら誰も自由にものが言えなくなっている。
今回の「人質殺害事件」でも、テレビ番組やCMが相次いで放送を「自粛」している。たとえば、アニメ『暗殺教室』は、ナイフを振りかざして刺すシーンがあるとして放送見送り。サッカーくじのテレビCMは、主人公の名前が「ゴトウ」であることなどで放送中止。ようするに「クレーマーに配慮して」の自粛である。「いやな空気」を忖度することが、自由な表現を萎縮させる効果をもたらせているのだ。
ガラパゴス化した「世間」という環境
いま日本中のいたるところで、こうした事態が生じている。最近、女優のアンジェリーナ・ジョリーさんが監督した「アンブロークン」という旧日本軍の捕虜虐待を描いたアメリカ映画が、ネットなどで「反日映画」「日本貶(おとし)め映画」だとしてボイコット運動が起き、配給会社の「自己規制」で、日本で上映できない状態になっている。「嫌韓・嫌中」「ニッポン万歳」という「いやな空気」が蔓延(まんえん)するなかで、リアルの「世間」だけでなく、「ネット世間」の同調圧力が肥大化し、当事者がその「いやな空気」を読んだ結果である。ジャーナリズムもまた、空気を読んだ忖度や自己規制や自粛で自由な表現が抑圧され、かつて言論統制や政党の一元化をはじめ、国民生活の隅々まで国家に管理され、戦争に協力させられた第二次世界大戦中の翼賛体制につながるような危機的状況にある。国際ジャーナリスト組織である「国境なき記者団」が毎年発表する「報道の自由度ランキング」では、日本は10年の11位を最高に、12年22位、13年53位、14年59位と順位を落とし、15年2月の最新ランキングでは、180カ国・地域中61位と韓国や台湾も下回り、14年からは「顕著な問題のある」国に分類されてしまった。しかもこれは、必ずしもジャーナリストが政権の意向を読んだ結果というわけではない。職場の空気や上司の胸の内を「忖度」するだけで十分なのだ。政権に命令されたわけでもない。にもかかわらず事態は、政権の望むような方向に収斂(しゅうれん)してゆく。
一番怖いのは、おそらくこのランキングの数字を見ても実感が持てる人がほとんどいないことだ。多くの人は日本は自由の国だと信じている。日本は、孤立した環境で多くの生物が独自の進化を遂げたガラパゴス諸島のように、「世間」という日本だけで通用する「ガラパゴス化」した環境に閉じ込められているので、国の外部に出ないかぎりそのことがよくわからない。外部からのこういう指摘がないかぎり、それに気づくことはまずないし、指摘されてもすぐに忘れる。
匿名性に隠れる「太宰メソッド」
「世間」の「いやな空気」は肥大化するばかりである。いったいどうすればよいのか。太宰治は『人間失格』のなかで、主人公が女道楽をとがめられて「これ以上は、世間がゆるさないからな」といわれ、「世間というのは、君じゃないか」とつぶやく場面を描いている。このように個人的感情を、「世間」とか「みんな」という大きな主語に託して、自分の発言を正当化したり、自分の責任を回避したりすることをネットスラングで「太宰メソッド」というらしい。
面白いと思うのは、これは「世間」の同調圧力に「水を差す」ということであって、「世間」の背後に隠れて、匿名性にひたっている個人を浮き立たせる。