きっかけはローマの安宿
私が運営するHAGISOは、学生時代に住んでいた木造アパート・萩荘を改修したものです。萩荘は、老朽化や東日本大震災もあって取り壊しが決まっていたのですが、家主さんにリノベーション、改修して新たな価値を持たせるという提案をし、2013年3月に最小文化複合施設として生まれ変わりました。愛着のある谷中で、趣のある古い建物が機能性重視の管理しやすい建物に置き換わっていくことに無力感を感じていたこともあり、HAGISOから谷中という場所の新たな可能性を提示できたらと思ったのです。当初は、HAGISOという施設の中でなにができるかがテーマだったので、カフェやオリジナルグッズを置くショップを開いたり、イベントを開催したりして、人の行き交う場を作りました。しかし、それだけではすべてがHAGISOの中だけで完結してしまう。そもそもHAGISOの価値を担保しているのは、谷中というまちの価値なのです。谷中の価値が減じていけば、結果的にHAGISOの価値もなくなってしまいます。このまちに対してなにかできないか、なにかしたいと思ったとき、目についたのが空き家でした。そして、思い出したのが、数年前のローマ旅行で泊まったホテルのことです。
予約した安いホテルは、マンションの一室みたいな場所にレセプション(受付)がありました。案内された部屋はそこからけっこう離れた場所にある別のマンションの一室で、隣の部屋は人が住んでいました。しかし、ドアを開けたら部屋の中はちゃんとホテルっぽい。これは面白いなと思いました。食事は、まちに出てレストランを利用すればいいのです。現地の人にしてみればコスト削減の方策なのでしょうが、逆にこれが価値になるのではないかと思ったのです。
谷中の空き家になっているアパートをつなげて、宿泊施設にしたらどうだろう。この発想自体は、課題などで学生が考えそうなことだし、とくに新しいアイデアではありません。後から知ったのですが、実際、香川県高松市には、仏生山まちぐるみ旅館という同様の取り組みをしている場所があります。イタリアの地方部には、アルベルゴ・ディフーゾ(Albergo diffuso、分散するホテル)という、過疎化したまちの古い空き家を宿泊室にして、受付はレストランなどで行うといったシステムがあります。問題は、このアイデアをうまく自分の環境に適合させて、新しい価値を提示できるかどうかです。それを具現化していくプロセスがまた、面白いと思ったのです。コンセプトは「谷中に泊まる」。こうして、谷中でのHANAREプロジェクトがはじまり、15年11月、グランドオープンを迎えました。
提供するのは、谷中での体験
HANAREは、HAGISOの2階にレセプションを置き、歩いて1分ほどの場所に宿泊棟のMARUKOSHISO(丸越荘)があります。部屋は木造のレトロ感を残した造りで、アメニティーグッズにはオリジナルの手ぬぐいを用意するなど、特別感を出す工夫をしています。大浴場には銭湯を、食事は谷中にあるレストランを紹介する仕組みです。朝食は宿泊費に含まれているので、HAGISOのカフェを利用してもらいます。谷中の情報は、コンシェルジュが提供するほか、オリジナルマップを用意しました。表は昼の谷中、裏は夜の谷中で使える情報が載っています。また、地元のお稽古教室の協力で、尺八や三味線などの文化体験ができるような仕組みも構築中です。概要はざっとこんなところですが、これだけでは既存のホテルとさほど変わりません。ここから、ゲストにどれだけ谷中を楽しんでもらえるかが問題です。とはいえ、観光客向けの店を用意して消費してもらうだけでは面白くありません。旅行は、地元に愛されている場所や店に出かけたり、地元の人と交流できたりしたときにうれしいと感じるものではないでしょうか。それを谷中で体験してもらうためには、どうしたらいいのか。
ひとつは、地元の人とのつながりです。HAGISOにいる自分たちがまず、地元とのつながりを深めなければなりません。そのために、カフェは地元の人にもたくさん利用してもらえるよう、意見を聞いたりメニューの相談にのってもらったりしています。ギャラリーでも、アート作品の展示以外にミニコンサートやトークイベントなども開催しています。カフェを地元やHAGISOに集う人たちと、HANAREを利用する旅行者が交流できる場にすることが大切です。
もうひとつは、コンシェルジュの育成です。木造アパートを改修した宿泊室は、専用に造られたホテルの部屋に比べて設備面でも劣る部分はあります。部屋に行くには外を移動しなければならないし、食事も浴室も外部です。そうしたデメリットに思える部分を逆に楽しんでもらうには、コンシェルジュ機能のホテル的なふるまいがキモになります。情報の量だけでなく、質を高めるためにも、まずコンシェルジュには谷中でたくさん遊んでほしいと頼んでいます。彼らが谷中の楽しさを知るほど、ゲストの希望にもより具体的に沿えるからです。谷中には夕焼けが美しい階段「夕やけだんだん」で有名な谷中銀座のほか、おいしいレストランや酒場、手作り体験のできる場も増えています。自分たちが自信を持って薦められる場所やサービスを多く持ち、的確に提供できる必要があるのです。
それから、まちのリソースは無理につながないことです。ゲストに紹介するレストランやショップなどとはとくに契約は結んでいません。提供したいのは観光客向けサービスではなく、谷中が持つリソースそのものだからです。
HANAREがつなぐ人とまち
私がHAGISOやHANAREをはじめようと思ったきっかけは、まち自体の価値が失われていくのではないかという危機感でした。ただ闇雲に壊して新しくするだけでなく、残っているものを利用する試みがあってもいいのではないかと思ったのです。もちろん、HANAREで空きアパートを活用するくらいでは、地域がかかえる空き家問題の解決にはなりません。しかし、そこに人が集まることで、それまで暗くて人通りのない道に明かりが灯ったと喜んでもらえているので、一つの試みにはなり得ると思います。当面の目標としては、はやく2棟めを稼働することです。複数の宿泊棟を持つことで、HANAREのコンセプトは完成するからです。京都などは町屋1棟を丸ごと貸すことがありますが、東京ではまだ難しい。いずれはアパートに限らず、庭付きの一戸建てを丸ごと借りたり集合住宅の一部分だけを借りたりして、多様な宿泊形態で運営できれば面白いでしょう。同時にコンテンツの充実も課題です。こうした試みを重ねながら地元の人たちと一緒に、谷中のまちとしての価値を未来につなげていかれればいいですね。