この給付型奨学金の導入は、従来「貸与のみ」であった日本の奨学金制度を改善する、重要な一歩であることは間違いない。しかし、日本学生支援機構による奨学金の貸与人数は、すでに132万人に達している(15年度)。今回の給付型奨学金の対象となるのは各学年2万人と極めて限定的であり、大半の利用者が学費を借りなければならない状況は、今後も続くことになりそうだ。
なぜ奨学金を借りるのか?
奨学金問題とは何か。それは第一に、ひと昔前と今とでは全く異なる“奨学金利用者の激増”という事態である。今、大学生の子を持つ父母世代よりも上の世代の人々は、1960~70年代の高度経済成長期に確立された年功序列型賃金制度によって、「子どもが成長する頃には賃金が上がる」という恩恵にあずかってきた。しかし90年代に入ると、経済事情の変化などで、企業がこの賃金制度を維持できなくなってきた。それよって、奨学金を借りることなしには、子どもを大学に通わせるのが困難な家庭が増加した。
全大学生(学部生・昼間部)の中で奨学金を利用している人の割合は、1996年の21.2%から2012年には52.5%に急上昇している。
今の中高年世代は、奨学金と聞くと、経済的に厳しい家庭の出身者のみが利用するものというイメージを持っている人が多い。しかし、現在の奨学金は、経済的に厳しい状況に置かれた少数の学生に限られた問題ではなく、大学生の多数に関わる問題となった。奨学金を利用することなしには、大学進学できない学生が多くを占めるようになったのである。
第二に、奨学金制度も大きく変化した。無利子から有利子への移行が進んだのである。かつての日本育英会の奨学金には利子がつかなかった。しかし1984年の日本育英会法の全面改正によって、奨学金に有利子枠がつくられた。
有利子貸与奨学金の増加に拍車をかけたのが、99年4月に出された「きぼう21プラン」である。有利子貸与奨学金の採用基準が緩和されるとともに、貸与人数の大幅な拡大が図られた。財政投融資から日本育英会への支出は、98年の498億円から99年の1262億円へと1年間で約2.5倍に増加し、2001年には有利子貸与が無利子貸与の貸与人数を上回った。
そして04年に日本育英会は廃止され、日本学生支援機構への組織改編が行われた。07年以降は、銀行などからの民間資金の導入も始まった。この過程で有利子奨学金が制度の柱となり、1998~2013年の15年間で貸与人員は約9.3倍、事業費は約14倍にも膨れ上がったのである。
正社員になっても返せない
第三に、若年層の貧困化による返済困難である。1990年代前半のバブル経済崩壊後、新卒学生の就職状況はそれまでと大きく変わった。文部科学省の「学校基本調査」によれば、大学卒の就職率は91年の81.3%から急速に低下し、2003年には55.1%となった。その後も厳しい状況は続いている。何とか職を得ることができても、新卒時から契約社員や派遣社員、アルバイトなどの非正規雇用に就く人が増加している。非正規雇用労働者の多くは、正規雇用労働者よりも低賃金である。12年の総務省統計局「就業構造基本調査」で見ても、パート、アルバイト、派遣、契約などの非正規雇用労働者の90%以上が年収300万円未満となっている。
こうした非正規雇用労働者の増加に引きずられて、正規雇用労働者の働き方も変化し、その待遇が低下してきている。ボーナスがなかったり、初任給や昇給が低く抑えられるケースも多い。こうした低待遇の正規雇用労働者のことを「周辺的正規労働者」と呼ぶが、16年時点で年収300万円未満の正規雇用労働者は1052万人。正規雇用全体の31.8%を占め、その数は年々増加している。大学を卒業して就職できたとしても、低賃金労働者になってしまう可能性は飛躍的に高まっている。これでは、たとえ正社員になっても奨学金は返せない。
日本学生支援機構の奨学金の延滞者のうち、8割以上が年収300万円未満というデータが出ている。このデータを見ても、奨学金を「返せるのに返せない」という批判は誤っている。失業率の高まり、非正規雇用や周辺的正規労働者の急増など、「若年層の貧困化」が、奨学金返済を困難にしているという構造を捉えることが重要である。
借金を抱えた若者の卒業後
奨学金利用者の多くは、厳しい経済状況でも何とかやりくりして貸与金と利子を返し続けている。そうして重くのしかかる奨学金返済は、彼らのライフスタイルに大きな影響を与えている。特に大きいのは結婚・出産・子育てへの影響だ。奨学金返済は大学卒業後、約15~20年にわたる。ちょうどこの時期は、親元から独立して、新たに自分たちの家族を形成するという重要なライフイベントと重なる。
全国の労働団体、労働者福祉事業団体、生活協同組合系団体などで構成される労働者福祉中央協議会(中央労福協)が、15年に行ったアンケート調査によれば、奨学金返済が結婚に「影響している」と回答した人が正規・非正規雇用を合わせて31.6%、出産に「影響している」と回答した人が同21.0%、子育てに「影響している」と回答している人が同23.9%と、かなりの比率に達した。
わが国では、すでに出生数は大きく減り続けている。ピーク時の1973年に年間209万人を超えていた出生数は、厚生労働省の推計では2016年には100万人を切ったとされている。これは少子化どころか、「再生産不可能社会」の到来とも呼べる深刻な状況である。このままでは日本社会自体が持続不可能となってしまう。生産年齢人口の急減は、日本経済にも甚大なダメージを与えるだろう。
さらに奨学金返済は、若者の働き方にも悪影響を与えている。就職難に苦しむ若者を大量採用し、過重労働や違法労働を強いて使い潰すことで成長する「ブラック企業」の台頭だ。これだけ大きな社会問題となっていながらも、なぜブラック企業がなくならないのか? その一つの理由は奨学金返済にある。
卒業後に奨学金返済を控える学生の多くは、「何が何でも正社員に」と考えて就職活動を行う。「決まらなかったら大変」というプレッシャーから、労働条件を十分に吟味する余裕などなく、そこをブラック企業に狙われやすい。
また、就職後にブラック企業だとわかっても、奨学金返済があるため「辞めるに辞められない」事態にも陥りがちだ。正規雇用で受け入れてくれる再就職先が見つからなかったらと考え、我慢し続けてしまう人が大勢いる。これもブラック企業が存続し続ける一つの要因となっている。
若者をとりまく不穏な空気
正規雇用での就職活動が思うようにいかない学生の中には、奨学金返済のために、自衛隊への入隊を考える人も少なくない。近年、日本の自衛隊は安全保障関連法(安保法)などの影響もあり、志願者減が表面化してきている。しかも少子化が進む中で、将来を担う若い隊員の確保は大きな課題だろう。そうした中で2~3年を一任期として働く、「任期制自衛官」という制度が注目されている。もともと任期制自衛官の多くは高校新卒者が占めていたが、大学卒や短大卒の若者にも広く告知することで、最近では応募者が増えているという。そのほとんどは、大学を卒業しても安定した職に就けず、奨学金返済が困難となることを恐れる若者たちだ。こうした経済的理由による自衛隊への入隊志願は、今はまだ制度化こそされていないが、日本においても「経済的徴兵制」が水面下で始まっていることを意味する。
若者にこうした事態が広がっていることを、世の中の多くの人は、まだ十分に認識していない。だから、奨学金についての記事が新聞やテレビなどのマスコミで取り上げられても、「借りた金を返すのは当たり前だ」とか「金がなければ無理して大学に行かずに働けばいい」という反応がいまだに多い。
今の中高年世代が若かった頃は、大半が新卒で正規雇用の安定した職に就くことができ、奨学金を借りたとしても返済は容易だった。高卒でも多くの就職口があり、親から独立しても食べられる仕事に就けた。