英語に訳せない忖度という言葉
いま一匹の妖怪が、日本の会社、官庁などあらゆる組織体を徘徊している。「忖度」という名の妖怪である。森友学園への国有地払い下げ問題に端を発し、にわかに脚光を浴びることになったこの言葉は、早くも今年の流行語大賞の有力候補という下馬評もあるらしい。森友の籠池泰典前理事長は、2017年3月23日に行われた日本外国特派員協会主催の記者会見で、「安倍晋三氏や昭恵夫人の直接の口利きがあったのか」というニューヨーク・タイムズ紙の記者の問いに、「(周囲が)安倍首相または夫人の意思を忖度して動いたのではないかと思っています」と答えている。
面白いのは、この忖度を通訳が、「推測する」「行間を読む」「誰かが暗示していることを汲み取る」などいろいろ英訳しようとするのだが、結局翻訳できずに「直接言い換える言葉はありません」とコメントしたことだ。
確かに忖度は普段聞き慣れない言葉ではあるが、「空気を読み、あらかじめ上の意向を察して、自分の行動を決定する」と言えば、日本人だったら誰でも思い当たる節があるはずだ。思うに、忖度が英語に翻訳できないのは当然で、海外とくに西欧社会では、忖度という概念や行為がそもそもありえないからである。
「世間のルール」に縛られる日本人
なぜ、そう言えるのか? 私に言わせれば答えは簡単で、それは海外にはない「世間」が、日本全土を津々浦々にわたって支配し、日本人はこの「世間のルール」にがんじがらめに縛られているからである。例えば2011年の東日本大震災の際に、日本が外国のメディアから絶賛されたのは、海外だったら当然起こりうる略奪も暴動もなく、被災者が避難所で極めて整然と行動していたことだ。この海外からの意外な反応に、逆に驚いた人も多かったと思う。
海外で震災のような非常時のときに略奪や暴動が起こりやすいのは、警察や軍隊などの活動が停止し、「法のルール」が機能しなくなったときに、他に違法行為を抑止するルールが存在しないからである。
ところが日本では、「法のルール」が崩壊しても、日常的に「世間のルール」に縛られているために、それが大きな抑止力になって、略奪や暴動になることはまずない。つまり日本人の生活世界を支配するルールは、「法のルール」と「世間のルール」の二重構造になっていて、「法のルール」はよほどのことがないと発動されず、「世間のルール」がつねに優先的に作動している。
日本の会社や官庁といった組織体もまた「世間」であるために、「法のルール」より「世間のルール」が優先される。忖度が英語に訳せないのは、この言葉が「世間のルール」に属する概念であり、海外とくに西欧社会では、「法のルール」はあるが、この「世間のルール」が存在しないからである。
タテマエとホンネという奇妙な二重構造
では、このような二重構造が日本で生まれたのは、いったいなぜか?日本は明治時代の1877年ごろに、西欧からsocietyという人的関係を示す言葉を輸入したが、江戸時代にはそうした概念がなかったために、「社会」という言葉を新たに造語した。しかしその後140年ほど経って、語の本来の意味でのこのsocietyとしての「社会」が、日本に定着したかと言えば、たぶん今でもない。
その代わりに日本に連綿と存在し続けてきたのは、万葉以来一千年以上の伝統がある「世間」という人的関係である。この「世間」には、それを遵守しなければ「村八分」となるような細かな「世間のルール」があり、日本人は「世間を離れたら生きてゆけない」と思っているがゆえに、律儀にこれを守っている。
さらに明治時代の近代化=西欧化の一環として、近代法としての「法のルール」が新たに日本に輸入された。問題なのは、これが「社会」に属する概念であるために、「社会」が存在しない日本では、人々の間になかなか定着しなかったことである。それゆえ、「法のルール」はあくまでもタテマエであり、ホンネのところでは「世間のルール」が機能するという、奇妙な二重構造が生まれたのである。
この二重構造が、あらゆる日本の組織体を支配している。例えば証券取引等監視委員会への内部通報をきっかけにして、15年4月に発覚した東芝による利益水増しなどの粉飾決算の問題もそうだが、日本の会社でコンプライアンス(法令遵守)がうまく機能しないのは、「法のルール」がよほどのことがないと発動されず、日常的に忖度などの「世間のルール」が支配する、という状況になっているからである。
命令などなくとも、忖度がありうる
ところで興味深いことに、英フィナンシャル・タイムズ紙(電子版)は、この森友問題と忖度をめぐる記事の中で、忖度を「与えられていない命令を先取りし、穏便に従うことを指す」(日経電子版2017年3月31日付「[FT]Sontakuがつなぐ日本のスキャンダル」)と定義している。しかし私は、この定義はあくまでも西欧人的な見方であって、正確ではないと思う。なぜなら、ここでいう「命令」とはあくまでも「法のルール」に属する言葉で、「世間のルール」が優先される日本では、そもそも命令などなくとも、忖度がありうるからだ。
つまり忖度は、命令を前提としていない。けれどもこの記事では、たとえまだ与えられていなくとも、命令があることが前提とされ、それを「先取り」するのが忖度だとみなされている。これは些細な違いのように見えるが、じつは決定的な違いである。
よく「悪い忖度」の例として、ナチスのユダヤ人虐殺において、それを官僚として忠実に遂行したアドルフ・アイヒマンが挙げられる。確かにヒトラーはユダヤ人虐殺の命令をすべて口頭で行い、文書は残されていないらしい。しかし指揮命令系統があやふやで、ユダヤ人虐殺が忖度によって行われたかといえば、そうではないだろう。
この点では、ユダヤ系ドイツ人で、ナチスの迫害を逃れて亡命した政治哲学者ハンナ・アーレントによって「悪の凡庸さ(陳腐さ)」と指摘されたアイヒマン自身も、イスラエルの法廷で、自分はしかたなく上司の命令に従っただけだと弁明している。基本的にはナチスは、命令という「法のルール」の原則のもとに行動していたのであって、そこに忖度が生まれる余地はない。原理的に言って、西欧には「社会」はあるが、「世間」は存在しないからである。
フィナンシャル・タイムズ紙のこの記事は、日本でも西欧と同様に、「法のルール」の原則が貫徹していることを前提に書かれている。だが、たぶんそれは大きな誤解であって、日本の組織体では「法のルール」はタテマエに過ぎない。忖度を含めた「世間のルール」が、外紙の記者にとっては理解不能だったのだと思う。
「いい忖度」「悪い忖度」なんてない
この日本の「世間のルール」の一つに、「共通の時間意識」というのがある。これは、「オレとお前は同じ時間を生きているんだぜ」というルールである。すなわち「世間」の中では、「個々の時間」を生きる西欧流の「個人」が存在しないために、自己と他者との境界が曖昧で、お互いに心中を「察する」ことを要求される。また「同じ時間」を生きていない異質な人間がいると、これを排除しようとする集団力学が働く。そこから、日本に独特の「空気を読め」という同調圧力が生まれる。