そうなると会社などの組織体では、「察するに、上の意向はこうだ」とか、「法令遵守もいいが、もっと大人になれよ」とか、「空気読めないの? ハブられるよ」などといった言葉が飛び交うことになる。仮にコンプライアンスに反するようなことであっても、周囲の空気を読み、「上の意向」を察し、忖度することを強いられることになる。
確かに忖度することによって、組織内での葛藤や対立を表面化させず、人間関係を円滑にするというメリットはあるかもしれない。しかし、ここで私が危惧するのは、空気を読み、忖度することによって、責任の所在がどこかに吹っ飛んでしまうことだ。
例えば、18年度から使用される小学校の道徳の教科書についての検定過程において、「国や郷土を愛する態度」などを学ぶ題材が、文部科学省の検定意見によって「パン屋」から「和菓子屋」に修正されたことが報じられた(17年3月25日付朝刊各紙)。なぜ「和菓子屋」が良くて、「パン屋」がダメなのか。戦時中、外来語を「敵性語」として排除したことを思い出すような話である。
文科省は、「政権の意向」を忖度した可能性はある。しかし、「和菓子屋」への修正を出版社に具体的に指示したわけではない。結局これは、出版社が検定意見の中に「上の意向」を察し、空気を読み、忖度した結果だということになる。とすれば、この「和菓子屋」への修正は、いったいどこに責任があるのか?
たぶん文科省は、政権の誰からも命令や指示を受けていないし、修正はあくまでも出版社の判断だと言うだろう。また出版社は、文科省の検定意見に従っただけだと言うだろう。そうすると、この奇妙な修正がなぜ起きたのか、責任の追及が極めて困難になる。この忖度の積み重ねこそが、不正があっても最終的に誰も責任を取らなくともよいという、日本の組織体における「無責任システム」を再生産してきたのだ。
このように、忖度という言葉は責任の所在を徹底的に曖昧にする。だから、大阪府の松井一郎知事が言うような「いい忖度」「悪い忖度」などありえない。忖度なんて、ないほうがいいに決まっているからだ。