「相模原事件」にどう向き合うか
あの凄惨な事件から一年が経つ。まずは、生命を奪われた方のご冥福を祈り、いまなお癒えない傷を抱えた方の心の内を推し量りたい。一方で、この事件を追う人たち(報道関係者や障害者団体関係者)からは、早くも事件の風化を懸念する声が漏れている。この原稿を書いている7月現在、まだ殺人罪などで起訴された植松聖(さとし)被告の公判もはじまっておらず、現場となった建物の再建問題も確たる結論が出ていないというのに。
私は「相模原事件」にどう向き合うかが、この社会の未来を決めると思っている。重い障害を持つ人たちと共に、私たちはどのような社会を作ろうとしているのか。その理念や哲学が問われている。
このことを前提に、本稿では「相模原事件」に関連して気になっている二つの事柄について書いておきたい。
不気味な「安楽死」のニュアンス
一つは、かつて、この社会で議論の末に退けられたはずの言葉や概念が、いつの間にかよみがえっている不気味さについて。具体的には、事件を起こす5カ月前の16年2月、植松被告が衆院議長に宛てた「手紙」(ほとんど犯行予告)にあった「安楽死」という言葉についてだ。この言葉は一般に、回復の見込みのない末期状態の患者に対し、本人の意向を尊重して、耐えがたい苦痛から解放されるために死に至る処置を施すこと、といった主旨で使われる。しかし、例の「手紙」で使われた「安楽死」は、どのように読んでも、こうとは解釈できない。むしろ前後の文脈を踏まえれば、「不幸を作り出すことしかできない障害者を殺すこと(殺してあげること)」といった意味合いで用いられている。
極めて自分勝手な理屈にめまいがするほどの嫌悪感を覚えるが、私が真に不気味に思うのはこの点ではない。というのも、かつて「安楽死」という言葉には、同様の意味合いが含まれていたことがあるからだ。
経緯を説明しておこう。煩雑にならないよう簡略な記述に留める(注1)。
日本で「安楽死」という言葉が社会的な関心事となりはじめたのは1960年代初頭と言われている。この時期、ベルギーで障害児を殺害した家族や医師らに無罪判決が下ったことが大々的に報じられたり(62年11月)、司法の場で「安楽死」の要件が示されたり(名古屋高裁山内事件判決:62年12月)したことで、「安楽死」という言葉が一般向けの週刊誌などにも頻繁に登場した。
当時の週刊誌などに掲載された「安楽死」の議論に目を通してみると、この言葉に現在とはかなり異なるニュアンスが含まれていたことがわかる。つまり、社会や家族の負担となり、生きていても仕方のない障害者を「安楽」に死に至らしめること、といった意味合いが含まれているのだ。
ただ、当時はこのことに対して特に批判的な意見は出ていない。一部の障害者団体が敏感に反応しているが、はっきりとした反論はなされていない。
半世紀前の亡霊
この言葉をめぐる状況は70年代に大きく変化する。多くの障害者団体から、障害者を標的にした「安楽死」は許さないという問題提起がなされたのだ。特にナチス・ドイツの障害者虐殺などが引き合いに出され、安易な「安楽死」肯定は障害者差別につながるといった批判が展開された。この批判の先頭に立ったのが「日本脳性マヒ者協会青い芝の会」(後述)であり、リベラル系の知識人の一部もその主張に同意したこともあって、「安楽死」という言葉には拭いがたい負のイメージが貼り付いた。70~80年代に障害者問題に関わった人の中には、このニュアンスを肌感覚で記憶している人もいるだろう。
先に私が示した不気味さは、この点に関わる。植松被告が使った「安楽死」という言葉は、かつて障害者運動に関わった人たちが全力で批判したはずの意味合いで使われている。彼が当時の言論状況を知っていたとは思えない。そんな事情など意識することなく、「安楽死」という言葉を、あのような意味合いで用いたのだろう。
そう遠くない昔、私たちの社会の中で、議論の果てに「望ましくないもの」や「悪しきもの」として退けられた言葉や概念が、いつの間にかよみがえっている。まるで半世紀前の亡霊が現れたかのような観がある。
現時点では、植松被告の「安楽死」観が広い支持を得るとは思えない。共感する人も多くはないだろう。しかし、「言っていることはわからなくもない」程度に受ける止める人は確実に存在する。
「わからなくもない」人たちが存在するからといって、すぐに同じような蛮行が繰り返されるとは断言できない。しかし、そういった意見の層が厚くなれば、障害者への人権侵害を黙認する風潮は確実に高まるだろう。
踏みにじられた「尊厳」への「怒り」が足りない
もう一つは、現在の社会状況に関わるもので説明が難しい。強いて言えば、この事件に対する「怒り」が足りないのではないか、という点だ。この一年、自分なりに事件をめぐる「言葉」を追いかけてきた。各地で追悼集会が開かれ「悲しみ」がわかちあわれた。信じがたい凶行への「恐怖」が吐露された。識者からは、この事件が「精神障害者」に対する偏見を助長しかねないことへの「懸念」や「憂慮」が繰り返し示された。
事件に関心を持つ人たちは、冷静かつ誠実な言葉を積み重ねてきた。ただ、19人もの障害者の生命と尊厳が奪われたことへの「怒り」の言葉は少なかったように思う。社会全体に目を向けてみても、事件の規模と残忍さを思えば、もっと「怒り」が共有されてもよいはずなのに、この事件に向き合おうとする熱量は上がっていない。
社会の関心が高まらない背景には、被害者の顔が見えない異例の匿名報道もあるかもしれない。「怒り」よりも「おぞましさ」が先に立ち、早く忘れてしまいたい人が多いのかもしれない。しかし、最大の理由は、この事件が「障害者施設という遠い世界で、異常な人間が起こした例外的な事件」として受け止められていることにあるように思えてならない。
もちろん、植松被告の身勝手な理屈に怒った人は少なくない。ただ、ここで問題にしているのは、「身勝手な理屈を振り回すこと」への怒りではなく、「障害者の生命と尊厳が傷つけられたこと」への怒りだ。
被害者の関係者や、障害者の社会参加を求めて闘ってきた当事者団体には、はっきりとこのような「怒り」を示してきた人たちがいる。しかし、それが社会に広く染みているとは言いがたい。事件後、どれだけの人が「障害者の生命と尊厳が傷つけられたこと」に対して怒っただろうか。私自身、自戒の念を込めて思う。私の「怒り」は足りているだろうか。もっと怒らねばならないのではないか。
障害者問題に関して言えば、この十数年で「障害者と仲良くするための言葉」は増えた(「みんな違ってみんないい」など)。「障害を肯定的に捉える言葉」も多様になった(「障害は個性」など)。しかし、障害者の尊厳が傷つけられたとき、とっさにどんな言葉を発せられるだろう。はっきりと「怒り」を表すことができるだろうか。
一見、柔らかな言葉で接していても、なにか問題が起きたとき、その人のために怒らないのであれば、それは共生と言えるのか。理不尽に奪われた生命があるにもかかわらず、それに対して怒らないのであれば、「理不尽に奪われても怒らなくてよい生命」が存在することになる。「障害者の生命と尊厳」は、傷つけられても「怒り」に値しないものなのか。本当にそれでよいのか。そこが問われなければならない。
「障害者が殺されること」を他人事だと思ってはいけない。そう思った瞬間、「誰か特定の人たちが殺されても特に気にならない社会」を肯定することになる。そんな社会の「無関心という壁」の向こうで何が起きるかを想像してほしい。自分や自分の大切な人が、「壁」の向こう側に押しやられない保障など、どこにもない。
事件後に注目を集めた伝説の障害者運動家・横田弘
とはいっても、「怒る」ことは難しい。「怒り」は往々にして嫌われる。日本語の表現上、「悲しみをわかちあう」は自然な言い回しだが、「怒りをわかちあう」という言い方はしない。「怒り」は個人的で突発的な感情とされ、理性的に処理すべきものとされている。しかし、この事件に関して、「怒りたい人」や「怒りをわかちあいたい人」も一定数いるのではないか。そう思える現象がある。
事件後、一冊の本が注目を集めた。故・横田弘(1933~2013)の『障害者殺しの思想』(増補新装版、15年、現代書館)だ。