身柄が確保された日は顔も出して、そしてその翌日には顔にモザイクをかけた形で、とテレビへの映され方には違いがあったが、いずれも両親そろって記者の質問に答えた。
外科医の父親は「息子にかける言葉はない。亡くなった命は戻ってこない」と厳しい表情で語り、歯科医の母親は「私にとっては優しい息子だった」と昔を振り返った。
途中、感情をあらわにする場面はなく、今後についても「謙虚に素直にあったことを説明してほしい。自分の行ったことを振り返るのが第一歩だ」と冷静に語り、最後は「本当に申し訳なかったです」と静かに頭を下げた。
この会見について、いくつかの雑誌などからコメント依頼があったのだが、ある編集者は「正直言って違和感を覚えた」と言っていた。「親であれば、“申し訳ありません”と涙に暮れたり、息子に“なんてことしたんだ!”と怒鳴ったりするのがふつうじゃないですかね。なんか他人事みたいに見えて…。だいたいこういう場合、記者会見に出てこられるものですか?」
おそらくそれを理解するには、とくに父親が外科医であることを考えなければならないだろう。最近の医療では「説明責任」や「インフォームド・コンセント」が重要視されており、それがたとえ患者や家族にとって悪い知らせであっても、医者はきちんと事実を説明すべき、という方向に進んでいる。この父親も、ひどい状況の中だからこそ、まず果たすべきは説明責任だ、と考えたのではないだろうか。
そして、説明にあたって大切とされるのは、何といっても客観性と落ち着きだ。医者である自分までが動揺した様子を見せたり、患者といっしょに涙に暮れたりするのは、人情味はあるように見えるが、決してよい結果を招かない。それよりは、きちんと事実を伝えて、患者や家族の感情的な反応をそのまま受け止めるようにしながら、今後やれるべきことを説明する。この揺るがない態度が患者を安心させ、「よくわかりました。希望を捨てずにがんばります」と前向きな姿勢へと導いていくことになるのだ。
とはいえ、客観性や落ち着きは、事務的で冷たいことと紙一重だ。とくに若い医者の場合、客観的であろうとしすぎて、患者を絶望に陥れるようなことを平気で口にしてしまうこともあれば、相手の感情をうまく吸収できずに、「泣いたってしようがないでしょう!」などと非難してしまうこともある。
今回の父親は、冷静にしかし冷酷な印象は与えずに客観的な説明ができる、という点ではとてもすぐれた外科医なのだと思う。母親も、そういった“医療者のコミュニケーション”がからだに染みついている人なのだろう。だから、両親がまず会見を開いたこと、そしてその場で感情におぼれずに客観的とも取れる話し方をしたことを、「親が取るべき態度じゃない」と責めるのは、ちょっと酷なのではないだろうか。
ただ問題は、そういう“いつも医者として完璧”な両親の態度が、子どもにとってはどう映っていたか、ということだ。仕事場では完璧でも、家に帰れば欠点もあるふつうのお父さん、お母さんであれば、子どもはそれなりにほっとできるだろう。しかし日常の中でまでも職業人としての自分が前面に出てしまうと、子どもは知らないあいだに緊張を強いられ、プレッシャーを与えられることになるだろう。もちろん、今回の容疑者もそうだったと言うつもりはないのだが、世間の親たちも、「子どもの前でも完璧な仕事人間をやっていないか」と、自分を振り返ってみる必要があるのではないか。