17年末に、政府が生活保護基準の引き下げ方針を発表しましたが、それについてのSNSの書き込みなどを見ても、「ひどいことをするよね」という反応が多かったし、年明けに「生活保護引き下げ反対」のデモに参加した時も、露骨なさげすみの視線みたいなものはほとんど感じませんでした。
一つは、支援や制度周知の活動を一生懸命に続けてきた人たちがいることの成果なのでしょう。一方で、自分が生活の苦しさに直面したことで、他人事とは思えなくなったという人たちも増えている。その両方の側面があるのではないかと思います。
また、生活保護バッシングや貧困たたきは減ったかもしれませんが、いわゆる「ヘイト」的な言説は減っているわけではないと感じます。つまりは、ヘイトが新しい対象を見つけて、そちらに移っていっただけではないのでしょうか。分かりやすいのはやはり、在日コリアンなどへの差別的なヘイトスピーチ(憎悪扇動表現)。それに、現政権に批判的な立場の人に対して「反日だ」と罵倒することなどです。
その「新しいヘイトの対象」の一つにもなっている「相対的貧困」を次の作品で取り上げたいと思っています。13年に「子どもの貧困対策推進法」が成立し、メディアが子どもの貧困事例についてしきりに報道したため、貧困状態の子どもたちがいることは周知されるようになりました。
それはあくまで「今日食べる物が何もない」というレベルの「貧困」であって、16年にNHKのニュースで報道された女子高生がバッシングを受けたように、「経済的な理由で進学をあきらめなくてはならない」「お小遣いがなくて友達と出掛けられない」といった相対的貧困に関しては、「それくらいは我慢すべきだ」「その程度で貧困だなんて」と考えている人も多いように感じます。
相対的貧困の何が問題かを、どうすれば分かりやすく伝えられるだろうか、と今考えています。大学の学費や非正規雇用の割合といった客観的な状況を説明するだけでは不十分です。
研究者やジャーナリスト、当事者を支援する方たちは、相対的貧困を「はく奪指標」といった形で伝えようとしています。普通の家庭の子どもが体験できる海水浴やクリスマスにプレゼントをもらうといったことを、貧困状態でどれだけ体験できるかという充足度を指標化していくのです。
でも私は、経済的な理由で進路を自由に選べないといったことが、どれほど子どもの心を壊すのか、その子の人生にどれほど影響するのか。そういう心理にまで分け入って描いて見せることも、必要ではないかと思っています。
よく「どんな事情があるのか、その人の人生を想像しなさい」という言い方をされますが、それをすべての人に期待するのはやはり無理ではないでしょうか。だからこそ、その「想像」の肩代わりをするのがフィクションの役割であり、意義だと思います。テーマはまだまだ山積み。これからも描いていかなければならないと考えています。
相対的貧困
食べ物や住居など最低限の生存条件を維持できない「絶対的貧困」に対し、その国・地域社会において「普通」「当たり前」とされる生活を営むことが難しい状態を「相対的貧困」という。例えば、日本においては高校への進学率は97%を超えているが、その中で「経済的な理由で高校に進学できない」という状況は相対的貧困に当たると考えられる。
女子高生がバッシングを受けた
2016年8月、子どもの貧困問題を扱ったNHKのニュース番組の中で、経済的な理由で専門学校への進学をあきらめたという女子高生の事例が紹介された。放映後、ネット上で「背景に映り込んでいた自宅の部屋に大量のアニメグッズがあった」「本人が『好きなバンドのライブに行った』とツイートしていた」などの理由による、「本当は貧困ではない」「ヤラセだ」などのバッシングが巻き起こった。
はく奪指標
一定水準の生活に必要とされる衣食住や教育、職業、健康、社会活動、制度などの項目を選び、その充足度を指標化したもの。貧困を測定する指標の一つとされている。