2017年総選挙で与党圧勝により発足した第四次安倍内閣は、2017年11月8日に選挙公約であった「人づくり革命」について提言づくりを進めると発表した(自民党機関紙「自由民主」2767号 2017年11月21日号)。「人づくり革命」のうち、目玉公約が「幼児教育・保育の無償化」と「高等教育無償化」である。「幼児教育・保育の無償化」は、保育料が高い認可外保育所を対象外とする可能性が高く、認可保育所に入所できない待機児童問題の解決の方が、保護者にとっては切実な問題である。まず子どもを預けることができる施設が確保できなければ、無償化の恩恵にあずかることもできないわけだ。
2017年12月8日閣議決定された「新しい経済政策パッケージ」(内閣府HPにて公表)は、「第2章 人づくり革命」の中で「幼児教育の無償化」の理由として、幼児期は「情操と道徳心の涵養にとって極めて大切な時期」だと規定し、「根気強さ、注意深さ、意欲」などを身につけるために「幼児教育・保育の質の向上も不可欠である」(2-1,2-2ページ)と述べている。そもそも財政的な余裕はないわけだから、幼児教育・保育所施設にせよ、高等教育機関にせよ、無償化の対象となるためにクリアしなければならない基準を設け、「ふるい分け」がなされるだろう。幼児教育の場合は、上記のような「情操と道徳心の涵養」を行えることが無償化の条件となるのではないか。卑近な表現を借りれば、「お金を出すなら口も出す」という発想が今後展開していく、いや、むしろそれこそが「無償化」に隠された目標かもしれない。
安倍首相夫妻の関与が疑われる国有地売却の問題で森友学園が注目を集めたことで、系列の塚本幼稚園が園児に教育勅語を暗唱させていることなど、その教育内容が問題となった。結果として、2017年3月31日、政府は、学校教育において教育勅語を歴史史料以外の扱いとして取り扱うことに関して、「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定した。
戦前の修身科と似た役割を果たすのではないかと危惧される道徳の教科化が小学校以上の学校教育で開始される今、幼稚園教育要領(文科省)や保育所保育指針(厚労省)についても、「美しい日本」(安部首相)を特別なすばらしい国と考える「愛国心」の強調などが含まれていくのではないかと考えるのは杞憂だろうか。いや、情勢次第で杞憂に終わらないと判断した方が賢明だろう。「青少年健全育成基本法」が成立すれば、民間事業者に対する言論統制もより容易になる。
「子どものために」というマジックワードによって、生き方や考え方が管理統制される未来へ
冒頭の繰り返しになるが、「家庭教育支援法案」は、母親・父親と子どもだけの問題ではない。日本社会で生活するすべての人々の問題だ。「家庭教育支援法案」と同時期の成立が目指されている「青少年健全育成基本法」もまた、「不健全」とレッテルを貼られる危険性があるメディアや表現者だけの問題ではない。基本的人権を有する、すべての人々の問題である。
「家庭教育支援法案」の場合は、いじめやひきこもりがある、「ダメな親」がいる、子育て期には支援が必要だということを突破口に、すべての人に「あるべき姿」「あるべき考え方・感じ方」を強制する、内面に関する管理統制システムがつくられていく。「青少年健全育成基本法案」の場合は、青少年に「有害」なメディアコンテンツを規制するということを入り口にして、すべての人の言論・思想・表現の自由を脅かす、つまり国家権力による検閲を拡大強化していく道が拓かれる。
どちらも子どもを人質にする流れだ。わたしたちは「子どものために」と言われると弱い。家庭にしても、メディア情報にしても、子どもにとって危険だと思われる例を強調して、立証されていない因果関係を持ち出し、「してはいけない/考えてはいけないこと」と「すべきこと/信じるべきこと」のリストを増やす。そうして、わたしたちの自由は確実に奪われていくだろう。自分には関係のない、部分的な規制だからよいだろうなどと、ぼんやりと考えていたら、これらの法律は、成立した途端に普遍化され、すべての人をしばるものになるはずだ。
自民党の憲法「改正」案の第五条が、国が定める「緊急事態」には、種々の自由や財産権などの「私権」が制限される内容になっていることが公表され、多くの人を驚かせた(2018年3月6日付毎日新聞朝刊)。「家庭教育支援法案」と「青少年健全育成基本法案」、さらには憲法「改正」の流れを見ていると、戦前の家族制度や言論統制、国家総動員法の亡霊がひきずりだされているような恐ろしさを感じる。
日々忙しい人が多いだろうが、ぜひ各種の法案を読んでいただきたいと願う。「疲れた」心身は、身に迫る危険を察知しにくくなる。危険を察知してもなかなかそれと闘えない。しかし、仮に「疲れて」いたとしても、権利を持った主体であるがゆえに、筆者は身に迫る危険を、できるだけ多くの人とともに、しっかりと見極めたい。