虐待死は、本来あってはならない子どもの死です。最新の統計では児童相談所の虐待対応件数が12万件を超えていますが、15歳未満の子どもの人口、約1570万人(17年)で除すると、約130人に1人に該当します。市町村に虐待通告される事例も年間10万件を超えており、実際には虐待の可能性があり、行政がかかわっている事例はもっと多く、さらには行政とのかかわりのない子どもも含めると、育児に悩み疲れ、親子の関係性が他者から差し伸べる手を要する状況に陥っている事例は、地域に膨大に潜在しているはずなのです。この事実を前にわれわれは、対岸の火事として傍観していていいのでしょうか。虐待死の事例が生じるたびに、親や児童相談所を責め立てる論調が飛び交いますが、それまでに地域社会の大人は本当にその芽に気付いていなかったのでしょうか?
生きるというのは、全ての人間にとって根源的な最大の権利です。もちろん大人にとっても大切な権利ですが、特に生まれて十数年も経たない子どもたちが、それを途中で行使できなくなる状態というのは、理不尽さを感じます。私は医師としての立場で何とかしないといけないと思っています。しかしこの問題は医師だけの、もっと言ってしまうと専門職だけの問題ではありません。一人の子どもの死を、仕方のなかったこと、運命であり早く忘れてしまうべきものとせず、地域社会のすべての大人が自分で何かできなかったであろうかと、自分事として受け止めてほしいと強く思います。
CDRの意義
もちろん、予防可能な死は虐待に限ったものではありません。事故、自殺、医療提供体制の問題、死因究明の質の向上の問題など、全ての子どもの死亡事例について、CDRは検証します。
たとえば、ベランダからの転落防止についても、足元に物を置かない、柵の高さを変えるなど、改善できる要素を、保健活動などを通してアナウンスしていくことが必要です。よく転落死のニュースを耳にしますが、日本では子どもが年間、転落で何人死亡していて、そこから推計すれば、各県では何人が転落死する可能性があると、CDRを通して具体的に示していく。そうやって、自分のこととして考えられるストーリーを提示しないといけません。
自殺も同じです。死を選んだ子どもにはその子自身に脆弱性があったのではないか、と言われることがありますが、万一そうだったとしても、何の逆境的体験もなければ、その子は死を選ばないのですから、CDRを通し、その体験が何だったのかを明らかにすることが重要です。例えばいじめだとしたら、子どもを加害者にも被害者にもしないためにはどうしたらいいのか、CDRはいじめの認定をするために行うものではなく、その子どもの死から我々に足りないものが何であり、その死を受けて具体的にシステムをどう変えるのかを探るための制度です。哀悼の意を表し、犯人探しをしても、新たな同様の事例の発生を防ぐことはできません。具体策を多職種の専門家が集まって考え、アクションプランに変えていかないといけません。
CDRは、子どもを失った親へのグリーフ・ケアの役割も担っています。イギリスではCDRを行う上で、遺族のケアを第一義的に掲げています。「われわれはあなたの子どもの死を無駄にしたくありません。新たな予防のために学ばせてください。この子はすごく短い生涯を閉じてしまったけれど、そのことによって、今後の社会に役立つ存在になるんです」ということを、一医師としてだけでなく、社会からのメッセージとして、ご遺族に伝えていきたいと思っています。
もちろんご遺族の中には、自分の子どもを失って、その先の社会に役に立つから、と言われることに対し複雑な感情を抱く方もいると思います。子どもを亡くした際の悲嘆反応は様々であり、どのような感じ方であっても、それを尊重すべきです。しかし、子どもの死の検証を「遺族がチョイスするオプション」にしてしまっては、どのような選択を取ったにしても遺族は「その選択が正解であったのか?」という悩みに繋がっていきます。子どもが死亡した場合には、全例が検証されるものである、という前提を構築したうえで、遺族が自分から求めなくてもグリーフ・サポートとしての情報の提供がなされ、また自分から求める際には必ずしかるべき場所に繋がれるような、ネットワークシステムを構築する必要があると思っています。
「チーズの穴」がつながるとき
子どもと関わる専門職が集まり、子どもの死を検証する上で重要なことは、「こういったことは、二度とあってはいけません」と、漠然と話し合うのではないということです。その子どもが死に至る流れの中で、ここが介入ポイントだった、ここが変えられる要因だという死を防げたであろう分岐点を探し出して、優先順位をつけて、それらの「穴」を塞いでいかなくてはなりません。
「穴だらけのスイスチーズ」というたとえがあります。スイスチーズを並べ、たまたま「チーズの穴」が一直線につながったとき、子どもが死ぬと考えてみてください。「穴」が一つでも、ちょっとでもずれていれば死なずに済む。我々の持つシステムは、医療システムにしろ、福祉システムにしろ、教育システムにしろ、無数の「穴」が存在しています。CDRとはその穴を見つけ、具体的に穴を埋めるための作業なのです。我々の有するシステム上の問題点を見つけ、その問題の解決のために具体的な施策を実行するために行われるものなのです。塞いでも塞いでも、穴がなくなることは永遠にないかもしれません。しかし塞ぐ努力をし続けることで、穴が一直線につながる可能性は確実に減らすことができるのです。私は、この努力をし続ける社会こそが、子どもを大切にする社会であると思います。
即座に自分たちの日々の仕事につながるような「穴」であれば、塞ぐ努力は速やかに行われます。しかし巨大な「穴」であっても、一見自分たちの仕事に関連性がなさそうな場合、放置されてしまうことは少なくありません。
たとえば08年12月、京都大学医学部附属病院で1歳の五女の点滴に腐敗水を混入した母親が殺人未遂容疑で逮捕されました。逮捕後、次女、三女、四女がいずれも病院で同じように死亡していたことが明らかになりました。次女の時点で、彼女が死に至った経緯を検証していたら、三女、四女の死は防げたかもしれません。なぜ、同じような状況下でむざむざと、3人の幼女を死に追いやってしまったのでしょうか。
現在の制度では、最初に診た医師が「何かおかしい」と感じたとしても、そこで止まってしまいます。各機関がバラバラの状態なのです。たとえば解剖を行う法医学者と、子どもの最後の死を看取った臨床医との間で、実際には情報共有の機会はほとんどないのが実情です。どのような情報であれば、どのような範囲であれば情報の共有を行いうるのか、ルールが明確でない場合には、情報共有されない方向に傾いてしまいます。
18年3月3日には、5歳長女を虐待死させた容疑で継父が逮捕されるという事件も起こりました。家族は2カ月前に東京都目黒区に転居してきたのですが、前の居住地・香川県において長女は父からの暴行で2度、児童相談所(児相)に一時保護されています。もちろん、児相間での引き継ぎは行われてはいました。しかし、連携が不十分だったからこそ、「チーズの穴」が一直線につながり、5歳女児は命を落としたのではないでしょうか。もしもCDRが導入されていて、過去に児相間での引き継ぎがあったにもかかわらず虐待死した子どもの事例が判明していたなら、この女児は死なないで済んだかもしれません。徹底したCDRを行い、次に生かすべきケースは、子どもの死の数だけあるのです。
子どもが死んだという結果を前に、周りの大人が防御的に「やることはやっていました」と言ったところで、何も意味はありません。「やることはやっていたつもりであるが、子どもがなくなったということは、結果として我々の関わりは不十分であったということです。同様のケースが今後二度と出ないように徹底的に検証し、システムの改善につなげたいと思います」と言える社会を目指さなければなりません。
すでに最大限のことをやっているのでこれ以上は無理、つまり子どもは今後も死に続ける、などということを容認するわけにはいきません。徹底的に子どもを守るんだという感覚を、本気で地域が持てるかどうかが問われています。虐待事例であれ、事故事例であれ、病気による死亡事例であれ、根本は一緒です。
日本でCDRが根付くには?
CDRを現実の体制としていくためには、地域が鍵を握っています。アメリカでCDRが法制化された背景には、草の根からの盛り上がりがありました。市民の間に、子どもは社会全体で大切にするべきものだという意識、子どもの人権を重視する意識が根付いていたことが大きいでしょう。一方、日本ではこれだけ虐待死が報道されても、他人事という感覚が強い。そこには日本人独特の「文化」がある、と私は見ています。
日本人は、「他人に迷惑をかけるな」と育てられます。その裏返しは「自分に迷惑をかけてくれるなよ」です。