チョコチップパンしか食べない少女
普通科1年の担任、長澤和美教諭は今春、赴任して初めて担任した生徒たちの卒業を見送った。30年ぶりに赴任した定時制には、80年代の“ツッパリ”たちとは真逆の生徒たちの姿があった。ツッパって、大人や社会に反抗する力すら持てない現在の生徒たち。卒業させた生徒は「どの子も大変だった」が、家庭崩壊のすさまじさをまざまざと見せてくれたのが石川美樹(仮名)だった。
「安いから買っているんだろうが、そんなの栄養ないぞ。まだ食パン1枚の方が、はるかに栄養価が高いんだからな」
何度口を酸っぱくして言い聞かせても、美樹の食事は袋に入ったチョコチップパンだった。1袋6本入りだが、2~3本食べれば袋を閉じる。残りは明日の分だ。川越工業定時制には栄養満点の自慢の給食があるが、月5000円という給食費が払えないため、チョコチップパン数本が1日のうちで唯一の食事だった。
美樹は入学早々、顔に青あざを作って登校した。父は日本人、母は外国人。両親から暴力を受けていた。家庭に料理をつくってくれる人は存在せず、冷蔵庫に入っている食品に手をつけると殴られるため、アルバイトができる年齢になってからは、自分のバイト代で食べるものを買うという生活をずっと送ってきた。
「美樹、足を引きずっているけど、どうした?」
最初は頑な美樹だったが、声をかければ少しずつ家の事情を話すようになった。
「親に蹴られた」
その家で暴力は日常だった。本来なら児童相談所(児相)に通告する案件だが、美樹は即座に頭を振った。
「中学の時、誰かが通報したんだよ。それで児相がうちに調査に来て、帰った後、こっぴどく殴られたんだ。だから先生、そんな中途半端なこと、絶対にやめてよね」
「わかった。ただ、おまえに何かあったら大変だから、危険な時は警察に連絡するんだぞ。児相にも言うんだ」
長澤教諭は万一のことを考えて養護教諭と相談し、美樹には言わずに児相に連絡を取ることにした。美樹の情報をとりあえず伝えて、何かあったら素早い対応をしてほしいと願い出た。
保護者面談の通知を出しても、美樹の保護者からは連絡がない。父の携帯にかけても出ず、メールにも反応しない。ところがメールを出した翌日、美樹が血相変えてやってきた。
「先生が余計なことしたから、また殴られたんだよ! 『おまえが高校なんかに行ってるから、オレが呼び出されるんだ! 高校なんかやめちまえ!』って」
父もきょうだいも中卒という家庭環境で、美樹は土下座をして定時制を受けさせてもらった。姉は中卒で、水商売で働いている。美樹は父親からいつもこう言われていた。
「おまえもさっさと高校やめて、水商売で働け!」
美樹の学校生活は落ち着きとは程遠く、何か気に入らないことがあるとわめき出す。常套句がこれだ。
「私なんかどうせ、学校やめてキャバクラに行けばいいんだから!」
自己肯定感が低く、感情のコントロールができず、ちょっとしたことでキレて衝動的な行動に出てしまう。これらは「愛着障害」に見られる特徴の一部だ。保護者との間に安心できる信頼の絆(愛着)が形成できている子どもは、たとえば自分で自分をなだめやすい。また、悪いことしかけたとしても、大事な人が悲しむと想像がつくために踏みとどまれたりする。しかし、美樹にはそれがなかった。
授業をしょっちゅう抜け出すわ、衝動的に壁を叩いて騒ぐわ、トイレにトイレットペーパーを詰め込み、水をどんどん流して水浸しにするなど、問題行動を繰り返す。その度に長澤教諭は親には伝えず、丁寧に美樹の話を聞いていった。
「こんなことしていてもしょうがないだろう。美樹、そろそろ施設に保護してもらおう」
美樹は頭を振る。
「やだ、親を捨てたくない」
赤点ばかりだったが、何とか2年に進級させた。長澤教諭には確固とした思いがあった。
「中退させたとしても、戻せる家庭がない。この子は高校をやめさせてはいけない」
自立に向けたサポート
夏休み中、美樹の両親がそれぞれ別の恋人を作って家を出た。母は祖国に戻ったという。電気、ガス、水道が料金滞納で止められ、美樹は友人宅を転々とする生活が始まった。ここで美樹は施設に行くことを承諾し、20歳まで入所可能な自立援助ホームで暮らすこととなった。これでもう、少なくとも住居と食事に困ることはない。ちょうどこの頃、美樹は老人ホームでアルバイトを始めた。
「このバイトがよかったんです。おじいさん、おばあさんに可愛がってもらえて、職員からも信頼されて、ここで美樹は、人間関係の築き方を初めて教わった」と長澤教諭は振り返る。
家庭を離れたことで美樹は落ち着き、前向きになり、3年には成績優秀者にもなった。
このころ、母が、1年ぶりに日本に戻り、美樹を手元に呼び戻そうとした。相談を受けた長澤教諭はきっぱり言った。母親が娘を利用しつくす魂胆なのは明らかだった。施設にいる間、美樹の名義で契約した携帯電話を母が海外で使い、30万円もの請求が美樹に届いたことがある。施設長が通信会社に掛け合ってくれたおかげで、支払う必要はなくなったが……。
「無視しろ。おまえのお母さんかもしれないが、最低でも自立できるようになるまでは、関わらないほうがいい。施設の場所は教えるなよ。他のきょうだいにも教えちゃだめだ」
長澤教諭が支え、美樹は正社員として就職を決めて卒業した。定時制に入学しなければどんな未来が待っていたのか、容易に想像がつく生徒だった。それとは全く違う未来を手に、美樹は巣立って行った。