ヤングケアラーとは、家族にケアを要する人がいる場合に、本来大人が担うような家事や家族の世話を引き受けている18歳未満の子どもを指す。日本での実態をまとめ『ヤングケアラー』(中公新書、2018年)を上梓したのが、2016年にもイミダス編集部でインタビューをさせていただいた澁谷智子さんだ。
子どもたちが行っているケアは生活に溶け込んでいることもあり、子どもたち自身が体験を客観的に語るのはなかなか難しい。また、自分たちの苦労や家族の困難さについて「他人に知られたくない」「話しても共感してもらえない」という思いも抱きやすく、外に向かって語ることは少ない。それゆえ、ヤングケアラーは社会で「見えづらい存在」となっている。
その可視化を試みたのが、澁谷さんもメンバーの一員である日本ケアラー連盟「ヤングケアラープロジェクト」が行った、公立小中学校・特別支援学校の教員を対象としたヤングケアラーに関する本格的なアンケート調査だ(15年新潟県南魚沼市、16年神奈川県藤沢市にて実施)。これらの調査によってヤングケアラーの実態が見えてきたことで、もともと地域に根付いていた子ども・若者支援、学習支援のチームや団体などがヤングケアラー支援と結びつきつつある。たとえば、「それらしいと感じさせる子ども」がいた場合、いち早くサポートにつなげて子どもの負担を減らせるよう、地域がゆるやかに連携できる体制が模索されている。また、ヤングケアラーに関する研修会やシンポジウムが行われる機会も増えた。そしてここ数年、ある変化が見られるようになったという。
澁谷さんはこれまで元ヤングケアラーたちへの聞き取りインタビューを行ってきた。調査を始めたばかりの頃は話を聞かせてくれる人と出会うのにも苦労していたが、近年は「自分の経験を話してもいい」という若者がポツポツと現れるようになり、ヤングケアラーや元ヤングケアラーの立場で発信や活動を始める人も増えてきた。2019年2月澁谷さんが教鞭を執る成蹊大学で開催された「ヤングケアラー シンポジウム」では、3名がスピーカーとして登壇した。彼ら彼女らの「語り」からヤングケアラーの現実とこれからの社会に必要な視点、そして澁谷さんの想いをうかがう。
●ヤングケアラー シンポジウムにて:3人の声
「当時の自分が支援の対象になる、だなんて思ってもいませんでした」・・・・・・・・・・・・・・・・
【沖侑香里さん】 28歳
5歳違いの妹が難病。幼い頃から妹のケアを行ってきた。実家のある静岡を離れて大学へ進学し、障がいのあるきょうだいをもつ当事者グループ「きょうだい会」を知る。25歳のときに母親を病気で亡くし、それを機に実家のある静岡に戻り、17年に妹を看取るまで保護者としての役割を担った。18年「静岡きょうだい会」を立ち上げ自助グループとして始動。
妹が2歳のとき、発達が遅いことから何かしらの障がいがあるのでは、と家の中がざわざわし始めました。そして、妹が5歳になり私が小5のときに進行性の難病であることが判明。妹はだんだんと小走りができなくなり歩行器へ、特別支援学校の小学部へ上がる頃には車椅子になりました。食事も固形からペースト状へ、そして鼻からの経管栄養、胃ろうへと変化。病状が進むにつれ、私は経管栄養の用意やチューブの接続、痰の吸引などの医療的ケアも行うようになっていきました。
当時、自分がケアに携わっているという意識はなく、つらいと思うこともありませんでした。ただ、友人に妹のことをうまく話せず存在を隠しがちになってしまい、家族構成の話になるといつもビクビクしていたのを覚えています。
こうした感情は、当時誰にも話せませんでした。親が聞けば悲しむだろう、こんなふうに感じてしまう私が人としておかしいのでは? とさえ思っていました。
転機になったのは、県外の大学へ進学し一人暮らしを始めたことです。障がいのある兄弟姉妹をもつ当事者の集まり「きょうだい会」を知り、これまでの葛藤や不安を少しずつ言葉にできるようになりました。同世代の友人には状況説明が難しく相談できないようなことも、多くの説明なしに共感してもらえる。そのような場に出会えたことでずいぶん助けられました。
私は、「ヤングケアラー」という言葉自体を数年前まで知りませんでした。小さい頃から当たり前だった自分の立場に名前がつけられ、ましてや支援の対象にされるだなんて思ってもいなかったのです。誰かに助けを求めてもいいんだ、という意識をもったことはなく、そのためにさらに自分を追い込むことにつながっていたと思います。同じような境遇の人の存在をもっと早く知っていたら、もしかしたら必要以上に悩まなくてもよかったかもしれないとも、今振り返って思います。
「自分の体験を語ることが、自分の人生のリカバリーの一歩」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【坂本 拓さん】 28歳
中2の頃から、鬱症状とパニック障がいの病をもつ母のケアを担う。18年に発足した「精神疾患の親をもつ子どもの会『こどもぴあ』」代表を務め、同じ立場の仲間たちと語り合う場づくりと情報発信を行っている。社会福祉士、精神保健福祉士として横浜市で精神障がい者の地域生活支援に携わる。
僕の中で強く印象に残っているのは、中学2年生の頃、母が夫婦喧嘩の延長でリストカットをしたことです。その頃から母は精神的につらそうで、夜中に一人で泣いていることが多くなり、僕はそんな母に寄り添うようになりました。
鬱病とパニック障がいであると、母から告げられたのは高校2年生の頃でした。当時、僕は精神疾患についての知識がなく、ネットで調べるとあまり良くない情報ばかりが目に入ってきました。今ならそれらは極端な情報だとわかるのですが、当時の僕は、母が自殺してしまうのではないかと不安を抱えるようになりました。学校から一刻も早く帰り、母が生きていることを確認したい。友達と遊ぶことよりも母に寄り添うことを優先してきたように思います。僕がしてきたことをヤングケアラーの役割に当てはめるのであれば、それは情緒的なケアだったのかもしれません。
就職し1年が経った頃、経済的な理由がきっかけで母と別々に暮らすことになりました。