「スタンダード」の拘束力と問題点
このように、新人教員でも授業の質を保ち、最終的には児童の学力を向上させるためという名目で導入されている「スタンダード」ですが、実は成績や学力テストとの相関関係については明確に証明されていません。「スタンダード」の導入が学力向上に貢献していることを証明するには、複数の学校で「スタンダード」を適用するクラスとしないクラスを決め、数年単位で学力差を調べる必要がありますが、児童にとって不適切・不公平な実験を行うことは現実には難しいです。
にもかかわらず、なぜ「スタンダード」の導入が進んでいるのでしょうか? 良く言えば教師の経験則、悪く言えば思い込みに拠る、ということになるでしょう。「生徒の学びによさそうだ」という印象から「とりあえず」導入され、結果が検証されないまま、いつの間にか定着したということではないかと考えています。
本来、「スタンダード」はあくまで「目安」を示すもので、拘束力はありません。「スタンダード」をどこまで厳密に運用するかは各自治体や学校のスタンスにもよります。しかし、実務上ではやや強い拘束力を持つようになってきているようです。たとえば教員向けの研修会などで「自治体としてこういうスタンダードを示しているので、きちんと守ってください」と言われたり、外部の教員などに公開する研究授業や教育委員会の指導主事が各学校を回る際、どの程度スタンダードに沿った授業をしているかをチェックシート片手に評価されたりする、ということも行われています。
「スタンダード」に対する現場の反応は分かれており、非常に強い抵抗を感じる教員もいれば、あまり問題視せずに受け入れている教員もいます。実際のところ、本当に授業が下手な教員は別ですが、すべての教員に「スタンダード」を強制する必要はないはずです。厳しく運用した結果、「スタンダード」を守ることだけに教員の意識が向いてしまうのでは本末転倒ですし、授業スキルが高い教員に対しても一律で「スタンダード」を適用すれば、逆に授業のレベルを下げることにもなってしまいます。また、授業というものは非常に多様で複雑な営みですから、マニュアルで対処するだけでは限度があります。経験の浅い若手教員への手ほどきとして「スタンダード」を活用するとしても、慣れてきたら教員それぞれに発意工夫をさせていくことが望ましいと言えるでしょう。
「主体的な学び」のために
最近の教員を見ていると、あまり自分で考えないという傾向が強まっていると感じます。「スタンダード」にしても「なぜこういうルールがあるのか」と聞かれて、「上が決めたことだから」「伝統なので」としか答えられないことが多いのではないでしょうか。教員自身が多忙で余裕がないため、「スタンダード」のようなものがあると、むしろ「考えなくてすむから楽だ」と思ってしまうのかもしれません。また、今の日本の学校現場は上意下達の組織という面が強まっており、教育委員会や校長の指示は基本的に受け入れるという流れになっていることも影響していると思われます。
「スタンダード」がはらむ問題は、日本の教育界が抱える矛盾でもあります。近年、国際的な経済競争に勝ち残るためという名目で、言われたことをやればいいというのではなく、「自ら考え、自ら学ぶ」という主体的な学びが要求されています。国が定める新学習指導要領にも、「主体的・対話的で深い学び」という目標が記されています(小学校では2020年度から実施)。
一方で、国家にとっては、国民が完全に主体的に考えると、それぞれバラバラな主張をするようになり、国としての一体性を保つことが困難になるのではないかという懸念も出てきます。そこで、場合によっては、「きまり」を強制的に守らせるという教育を求めることになるのですが、「自ら考え」る力を伸ばすといいつつ、「きまり」は「きまり」だと従わせるのでは、まったく相反する教育目標を掲げていることになるでしょう。これは今の日本の教育界が直面する現実とは言え、現場の教員はどこかの時点から思考停止せざるを得ません。
しかし、「自ら考えない」教員が子どもたちの自ら考え自ら学ぶ能力を育むことなどできるはずがありません。マニュアル的な内容が多い現行の「スタンダード」は、「とりあえずスタンダードを守っていればいい」ということにつながりかねず、教員の考える力を削ぐという点で非常に弊害が大きいと言えます。
子どもにも「スタンダード」がある
先ほど、「スタンダード」には授業の質を保つという利点と目的があると述べました。
日本は公教育にコストをかけておらず、生徒児童の人数に対して教員数が圧倒的に足りません。にもかかわらず、国際的にみても高い水準の学力を維持していられるのは、極めて「効率的」「均質的」「画一的」に学校を運営しているからです。「スタンダード」もこのシステムに貢献するものと言えるでしょう。
例えば最大40人の小学生を相手に、たった一人で授業を行わなければならないというのは、新人教員でなくとも難しいことだと思います。授業中の私語をはじめ、ちょっとしたことで子どもたちは自由気ままに行動しがちです。そうならないように、生徒児童にもさまざまな「きまり」が課せられます。「正しい」姿勢で座り、黙って授業を受け、板書を「正しい」方法でノートにうつし、質問するときは手を挙げ、聞き取りやすい声で話す。これら児童向け「スタンダード」を守らせることによって、経験の不十分な教員でも授業を進めることができるようになるということです。
「標準」から外れる子どもを排除する危険性
しかし、多様性という点から見れば、児童向け「スタンダード」にも問題が多いと思います。たとえば、「授業中は姿勢よく座る」という「スタンダード」をおとなしく守れる子どもばかりではありません。個々の性格や特性によって、興味があちこちに向いてしまう好奇心旺盛な子ども、座り続けているとむずむずしてしまう活発な子ども、友だちに話しかけたい社交的な子どもなど、「スタンダード」からはみ出してしまう児童生徒は大勢いるはずです。
小学校の通知表の「関心・意欲・態度」という評価項目では、「スタンダード」をどれくらい守っているかということが反映されている可能性が高いと推測されます。ただし、適応できない子どもに対するサポートはあまり機能していません。そうした特徴を持つ日本の学校では、「スタンダード」が、これを守れない子どもたちを教室から排除するための論理に転化する危険もないとは言えません。
理不尽なルールに従わせるだけでいいのか
教育は“マナー”や“常識”のような、言葉で説明しにくいことを強制するという要素を含む社会的行為ですから、理不尽なこと、非論理的なことがエスカレートしやすい領域と言えます。たとえば、「掃除は黙って行う」という「スタンダード」は学校の中だけで通用するルールです。家庭も含めた学校以外の場所では誰もそんなことをしていないとなれば、子どもたちは「なぜ掃除のときにしゃべってはいけないのか」と疑問に思うかもしれません。本来は、そうやって自ら問いを発し、他者と対話しながら課題を解決していくことこそ「主体的な学び」の力になるはずです。
しかし、子どもを導くべき教員には今、子どもが納得するまで対話する時間も余力もありません。「スタンダードで決まっていることだから黙ってやりなさい」と従わせなければやっていけないというのが現状でしょう。こうしたことが続けば、子どもの考える力や主体性を育てる機会は失われてしまいます。
児童向けの「スタンダード」の中には、「座っているときは足の裏を床につける」「机と椅子を床に記した印に合わせて整頓する」「ノートの何行目に何を書き、何マス目に何を書くべきか」など、子どもたちにそこまで神経を使わせる必要があるのか、というものもあります。
「ブラック校則」
「下着の色は白」「髪の色は黒のみ」など、過度に細かく非常識な校則のこと。