映画作家・想田和弘さんの最新作『精神0』は、このコロナ禍のなか、日本で公開となった。ふだん住んでいるNYと、そして帰国して見た日本の現状から、想田さんは何を思うのか。ご寄稿いただいた。
ロックダウンのNY。あっという間に「自由」が奪われた
新型コロナウイルスのパンデミックにより、今年3月、僕が住んでいるアメリカ・ニューヨーク州では飲食店や映画館、劇場、美術館などが強制的に営業停止となり、市民には「自宅待機令」が出された。似たような措置はニューヨーク以外のアメリカの都市やヨーロッパでも取られ、入国禁止や入国制限も発令された。
いわゆる「ロックダウン」である。
この現象自体、僕にとっては驚くべきことだった。なにせ「経済活動の自由」や「移動の自由」といった民主主義社会の根本を支える価値が、さしたる議論や手続きを経ることもなく、国家や州の指導者の鶴の一声によって、あっという間に市民から取り上げられてしまったのである。
同時に驚かされたのは、そうした措置がほとんどの市民によって、すんなりと支持されたことだ。それどころか、ソーシャルメディアでロックダウンに疑問を呈したりするだけで、普段はリベラルな友人にまで「人の命が失われてもいいのか」と非難された。
「命」を盾に取られると、強く反論することは難しい。思わず口をつぐんでしまう。僕も命は大切だと思うからだ。
実際、ニューヨークの状況は、東京とは比べ物にならないほど悲惨である。最も酷いときには連日約800人もの人々がコロナウイルスで亡くなっていた。そういう意味では、ロックダウンという、とても副作用の強い強硬な手段を取るしか、他にやりようがなかったのかもしれない。
しかし気になったのは、人々に逡巡が見られなかったことである。そして、異論を許さぬ同調圧力の強さだ。
即座に思い出したのは、2001年9月11日に起きた事件だ。
あのときも僕はニューヨークで暮らしていた。2機の飛行機がワールドトレードセンターに突っ込んだ瞬間、アメリカは一変してしまった。あんなに自由で多様に見えたアメリカ社会が一瞬で「一丸」となり、国旗を掲げ、米軍を称揚し、第2の国歌と呼ばれる「ゴッド・ブレス・アメリカ」を合唱し、戦争に突き進んでいった。
当時、世論調査でアフガニスタン攻撃に賛成するアメリカ人が9割に達したというCNNのニュースを、身震いしながら見たのを鮮明に覚えている。右も左も諸手を挙げて開戦に賛成していた。アメリカの議会は、いわば野党のいない状態と化した。
あのときも盾に取られたのは(アメリカ人の)「命」だった。人々は「テロ」の恐怖に怯(おび)えていた。自分や自分の愛する人がいつ殺されるかわからない。それを防ぐためには、「テロリスト」を片っぱしから殺さなければならない。そう言って、アメリカ人はあの泥沼の戦争を始めた。その結果、アフガニスタン、パキスタン、イラクにおけるの戦争で軍民合わせて推定48万人から50万人が命を失った(2018年、ブラウン大学集計)。
9.11で実感したのは、死の恐怖に圧倒された人間は、いとも簡単に、個よりも全体を優先する「全体主義」に与(くみ)するし、凶暴にもなりうるということである。
この原則をコロナ禍に当てはめると、世界の将来をあまり楽観していられない。
そもそも新型コロナウイルスは、人々を分断するような特性を備えている。やっかいなのは、無症状な感染者が多くいるということだ。ウイルスが世界中に広まってしまった今、私たちはいわば全員が「潜在的な感染者」なのであり、したがってお互いがお互いを警戒せざるをえない。
コンビニでおにぎり一つを買うのにも、買う側は「この店員さん、感染していないかな」との考えがよぎるだろうし、売る側も「このお客さん、感染していないかな」と警戒するだろう。いきおい、相互不信にも陥りやすい。スーパーなどの店内でマスクをせずに話をしている人を見れば、「なんでマスクしないの? 飛沫が飛ぶじゃん」と憤りを感じがちなのではないだろうか。
だから日本社会で「自粛警察」や「コロナ自警団」が跋扈(ばっこ)したり、感染者が激しくバッシングされたりしているのは、実に由々しきことだが、不思議なことではまったくない。
〈山梨に帰省した女性〉の一件が示すもの
たとえば、東京から山梨に帰省した女性の件は、その典型である。
報道によると、女性は都内にいる間に味覚や嗅覚に異変があったが、ゴールデンウィークに山梨県内の実家に帰省した。山梨ではバーベキューをし、整骨院やゴルフ練習場も訪れていた。その後、勤務先の同僚の感染が分かったため、山梨県内でPCR検査を受けた。陽性の結果を伝えられた後、バスで都内に戻った。しかし保健所には当初、「PCR検査の結果を待っている間に都内に戻った」と虚偽の報告をしたという。
この女性に対して、ネットでは「歩く細菌兵器」「もはやテロリスト」「逮捕しろ」「名前をさらせ」などという中傷と攻撃が飛び交い、袋叩きの様相を呈している。報道各社が彼女の行動を詳細に報じている様子は、さながら殺人事件か何かの容疑者の足取りを追うような雰囲気を醸し出しており、女性は言外に「凶悪犯」のような扱いをされている。
たしかに女性の行動は、不注意と言われれば不注意かもしれない。また、きっと咄嗟にそう言ってしまったのだろうが、保健所に虚偽の報告をしたことは、少なくとも適切とは言えないだろう。
しかし冷静に考えてほしいのは、女性も誰かからウイルスをうつされた人だということだ。そういう意味では彼女も「被害者」なのだ。しかも、死ぬかもしれない病と闘う「病人」なのである。
それに、実家に帰省するのも、バーベキューやゴルフを楽しむのも、本来ならば誰にでも当然認められるべき市民的「自由」であり「権利」であるはずだ。実際、彼女は法律をまったく犯していない。にもかかわらず、彼女の行動がまるで犯罪であるかのように語られるということは、いつの間にか女性は日本社会において、自由や権利を事実上剥奪されているということなのではないか。
いや、剥奪されているのは女性だけではない。この文章を書いている僕も、読むあなたも、バッシングする無数の人々も、それを報じるマスメディアの人々も、すべての人間が自由や権利を剥奪されているということだ。
なぜなら先に述べた通り、私たちは誰もがいつ発症するのかわからない「潜在的感染者」である。したがって運悪く「陽性」と認められてしまったら、過去に帰省したりバーベキューをしたりゴルフ場へ行ったりしたことが掘り起こされて追及され、女性と同じように袋叩きにあい、社会的に抹殺されかねない。
よほどの切羽詰まった事情がなければ、そんなリスクは怖くておかせない。だから、帰省もバーベキューもやめておこう。そう考える人が多いのではないだろうか。
つまり私たちはすでに事実上、帰省もバーベキューも自由にできない状態に陥っている。まったく自由な市民ではなくなったのだ。