いま、石範先生がオモニ(母)は〝洗脳〟されているように見えたとおっしゃったのが、すごく嬉しいです。先生が私の長編デビュー作の『ディア・ピョンヤン』(2005年)をご覧になって、試写室を出るなり「残酷な娘やな」とおっしゃったことを思い出しました。今回も、これまでの映画でも、私自身の両親の世代に対する反発する思いも描いているわけで、あたたかいホームムービーではないんです。そこをバシッと指摘してくださって嬉しいです。
歌のシーンについてですけど、オモニはアルツハイマーになったあとも、頭のなかにはあの北朝鮮の歌以外ないんですよね。アボジ(父)も脳梗塞になる前は北朝鮮の歌ばかりを唄っていました。でも、脳梗塞になったあとは昔の韓国の流行歌とかで、北朝鮮の歌はまったく唄わなくなりました。なにか、朝鮮総連の幹部としての立場や責任から解放されたのかなと思いましたね。だから、オモニも病気になったらアボジと同じように、北朝鮮の歌を唄わなくなると思ったわけです。でも、そうならなかった。
その背景には、アボジには15歳まで暮らした済州島というふるさとがあるんだけど、オモニは日本で生まれた。生まれた日本の大阪をふるさとだと思いたかったんでしょうけど、そうはならなかった。大阪ではチマチョゴリを着ていると日本人から墨を投げつけられたりして、いじめられたそうなんです。日本で嫌な思い出がたくさんあったわけです。オモニはアボジと違って自分が解放されるふるさととか、祖国をずっと探していたんじゃないか。結局、オモニは最後まで祖国を探して、まだ北に忠誠を尽くす歌を唄っているんだろうなと思います。
いま、先生がご指摘してくださった肖像画のシーンについても、あのシーンがあることで「北にいる家族に会えなくなるんじゃないの?」と意見を言う人もいた。でも、あえて入れたわけです。つまり、あのシーンで表現したかったのは、私の世代からは親の世代のような生き方はしません、家族に会えなくても、言いたいことは言うんだという意思表示です。あのシーンはそういう意味でも絶対必要なんです。『ディア・ピョンヤン』のときから、「金日成って呼び捨てにしてええんやろか?」とか悩む自分がすごく嫌だったんです。
金 ヨンヒは民族教育を受けているからね。
ヤン そうです。民族学校では、総連が教えることだけを「信じろ」と教えるんですよね。「考えろ」ではなくて「信じろ」なんです。それは〝洗脳〟と言っていいものだと思うんです。すごく怖いことです。そういう意味で私の両親も含めて、総連組織に関わった人らが〝洗脳〟だと認めて、そこから脱皮しないとだめだと思います。
帰国事業と日本の問題点
――ヤン ヨンヒ作品を第1作の『ディア・ピョンヤン』から観ている人は、ヨンヒ監督のご両親がなぜ北をそこまで信奉するのかの答えが『スープとイデオロギー』ではっきりしたと捉えるのではないでしょうか。つまり、済州島出身の在日の方々の過去には四・三事件があったという見方もできると思います。その点、石範さんはどう見ていますか?
金 四・三事件の影響で北に帰った在日もいたと思います。私は1953年に四・三事件によって済州から対馬に逃げてきた女の人のことを「乳房のない女」(1981年)という短編に書いています。そのモデルとなった女性は四・三で捕まって乳房を拷問で抉(えぐ)り取られたのです。密航してきた彼女には息子がいました。その息子も母が来たあとに、密航で日本に逃げてきたけど捕まってしまい、大村収容所に入れられました。彼はその後、放免されて、母親のいる大阪へ帰ってきた。日本の大学に行っていましたが、のちに親子で帰国船に乗って北へ行くんです。あの虐殺の土地から日本へ逃れて来たけれど、彼らからすると、日本は植民地の宗主国でしょう? 日本の差別もひどいので、彼らは北に向かったわけだけど……。その後は、どうなったかわからない。
ヤン 日本のメディアの方々、映画を観た評論家やライターの人がこの映画を紹介してくださるときに、「済州島での四・三事件のようなつらい体験があったから、ヨンヒさんのオモニは北を信じて息子さんを帰国させたんですね。悲劇ですね」と言うんですね。でも、そこでいつも私が思うのは、オモニが生まれ育った日本のことを自分の国やともう少し本心から思えたり、日本社会がもう少し、在日にとって人間らしく扱ってもらえる場所であったならば、あんなにたくさんの在日の人たちが北に向かわなかっただろうと思うんです。その視点がいつも日本のメディアから抜けている。NHKの、帰国事業を扱った特別番組でさえ「日本も北朝鮮を地上の楽園と美化しました」の説明で終わりです。もっと日本のことも考えなきゃいけない。
うちの家庭の中でも、イデオロギーが対立していつもけんかが起こっていたんです。北に洗脳されたまま生きていこうという両親と、洗脳から抜け出したい私とのけんかですよ。でも、両親は私以外の子供たちをもう北に行かせてしまったから、単純に「日本で幸せに暮らせたらいいね」というようにはならない。つまり、多くの在日の帰国者を出した家庭には、「日本」が抜けている。生まれ育った場所である日本がどうだったかについて、日本人と在日の人が一緒になって議論してほしいですね。
「済州島四・三事件」
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。
金時鐘(キム・シジョン)
1929年朝鮮釜山に生まれ、元山市の祖父のもとに一時預けられる。済州島で育つ。48年の「済州島四・三事件」に関わり来日。50年頃から日本語で詩作を始める。在日朝鮮人団体の文化関係の活動に携わるが、運動の路線転換以降、組織批判を受け、組織運動から離れる。兵庫県立湊川高等学校教員(1973-88年)。大阪文学学校特別アドバイザー。詩人。主な作品として、詩集に『金時鐘詩集選 境界の詩――猪飼野詩集/光州詩片』(藤原書店、2005)『四時詩集 失くした季節』(藤原書店、2010、第41回高見順賞)『背中の地図』(河出書房新社、2018)他。評論集に『「在日」のはざまで』(立風書房、1986、第40回毎日出版文化賞。平凡社ライブラリー、2001)他。エッセーに『草むらの時――小文集』(海風社、1997)『わが生と詩』(岩波書店、2004)『朝鮮と日本に生きる』(岩波書店、2015、大佛次郎賞)他多数。金石範氏との対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(平凡社、2015年 増補版)において四・三事件を体験した記憶を語っている。
朝鮮総連
朝鮮総連(在日日本朝鮮人総聯合会)――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在日本公民団体。終戦直後の1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦、1951年1月結成)を前身とする。1948年の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の樹立後、朝鮮戦争(1950~1953年)を経て南北分断が決定的となるなかで、在日コリアンの北朝鮮の共和国公民(国民)としての帰属を明確に打ち出して1955年5月に結成された。民団(在日本大韓民国民団)は、こうした北朝鮮系の団体に対抗する在日コリアンによって1946年10月に結成され、韓国を支持している。朝鮮総連は、東京都に中央本部を置き、各道府県に本部と下部組織をもつ。民族学校を運営したり、朝鮮人が経営する企業に融資するほか、北朝鮮の窓口としてビザやパスポートの発行業務も行なっている。ヤン ヨンヒの父コンソンは、朝鮮総連大阪府本部の副委員長を務めたあと、大阪朝鮮学園の理事長を務めた。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット 「キーワード解説」(監修 文京洙)より)
帰国事業
帰国事業(帰還事業)1959年12月から二十数年間にわたって続いた北朝鮮への集団移住であり、日本と北朝鮮政府と両国の赤十字によって推進された。朝鮮総連だけではなく、日本のメディアさえも「地上の楽園への民族の大移動」と称賛した。日本社会で差別と貧困に苦しんでいた9万人以上の在日コリアンが、新潟港からの船で未知の国=北朝鮮に渡った。そのほとんどは“南”(韓国)出身者であり、いわゆる「日本人妻」と呼ばれる日本国籍保持者も含まれた。当時、韓国政府は在日コリアンに対して事実上の棄民政策を採っており、経済的にも貧しかった。一方、旧ソ連の後押しもあって経済復興を果たした北朝鮮に人々は希望を託した。日本と北朝鮮の間にはまだ国交が樹立されていないことや、北朝鮮住民の海外渡航の制限もあり、「帰国者」たちの日本への再入国はほとんど許されていない。ヤン ヨンヒの兄3人は、帰国事業によって北朝鮮に渡った。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット「キーワード解説」(監修 文京洙)より)