――石範さんも、映画を観てまたいろんなイメージが湧いてきたんじゃないですか。
金 映画から小さいエピソードを引っ張ってきていくらでも短編小説が書けますよ。たくさん印象的な場面があったけど、映画の中で大阪に済州島の「四・三研究所」の人たちが来るじゃないですか。オモニはあのとき、四・三についての過去を彼らに話しますね。そのあと、オモニはアルツハイマーになったの?
ヤン 研究所の人たちが来る前のオモニは、掃除ができなくなったりして、ヘルパーさんに週1回来てもらっているぐらいの状態でしたが、研究所の人には丁寧に過去のことを話していましたね。研究所の人と話して1週間後に、急に「アボジどこに行った?」とか「コノ(長男)どこ行った?」と言い始めたんです。もう亡くなった家族たちを探し始めたんですよ。いまでも父や兄たちと一緒に暮らしていると思い始めた。四・三の記憶を話すだけ話したから、もう忘れてええやろっていうことだったんでしょうかね。
金 アルツハイマーが進んだのは、研究所の人に過去のことを話したことの影響があるかもしれないな。
ヤン 安心したのかもしれません。「わたしは全部話したから、あとはあんたらに託すよ」みたいな感じでしょうか。
金 四・三事件の現場である済州島から来た人に話したということもあるのかな。
ヤン そうなんです。私とか荒井が質問するのと違って、研究所の人は具体的に聞いているんですよね。「〇〇という場所はどこにありますか?」という問いに対してオモニも、「それは〇〇通りの近くにある」とか答えていた。そのオモニの記憶が正確なんです。研究所の所長が助手さんを通して、済州島に場所の確認をしたら、ぴったり証言通りだったそうです。だからオモニも研究所の人と話して、高揚しているというか、生き生きしていましたね。
金 そのあと四・三事件の追悼式のために済州島に行くでしょう。あのときは、オモニのアルツハイマーがかなり進行していたように見えたけど。
ヤン そうですね。日によってちょっと違いましたけど、済州島でご飯を食べているときに、研究所の人がオモニに済州島の方言で話しかけると、ハッと一瞬、顔を上げて「ああ、昔、これをよく食べました」とかはっきり受け答えできる日もあったんです。フッと、意識と記憶が戻る瞬間がありましたね。
一番、印象的だったのは、研究所の事務室で話しているときに所長が方言で、オモニに「昔つらいことがたくさんあった場所ですけど、平和公園で慰霊祭にも参加して、いまどう思われていますか?」と質問したんです。闇の中に葬り去られた済州島とオモニの歴史がようやく明るみに出て語られる時代になったことを、どう考えるかという問いでもあったと思うんです。そうしたら、オモニが「全部抱きしめたいです」と言ったんです。はっきりと声が録れなくて映画に入れられなかったんですけど……。朝鮮語で「タ アンコシプスニダ」ってつぶやいた。
金 その瞬間だけでも、オモニは幸福だったんだな。素晴らしい言葉だ。愛だな、人類愛みたいなものかな。両手を広げて大きい漢拏山(ハルラサン)を抱くのか(笑)。
ヤン めっちゃ腕長いけど(笑)。オモニはそのあと済州島から日本に帰ってきて、1日3時間ぐらい、部屋の中で手を合わせて拝むような姿勢を取るようになりました。ニコニコして、誰かと交信しているみたいでした。目の前にアボジや兄が見えているのか、もしくは想像なのかわからないけど、ちょっと笑ったり、ずーっと「うんうん」と頷いたりしていました。
映画が事件を知るきっかけのひとつになれば
――ほかに、石範さんがこの作品で印象に残ったのはどのシーンでしょうか。
金 特に四・三事件についての背景をアニメーションで解説した場面ですね。あそこが非常に重要なんですよ。なぜアニメーションを持ってこざるを得ないか。再現映像で虐殺のシーンを役者に演じてもらうとかで説明しようと思うと、大変な長編になるわけですよね。そもそも映像素材も無いし、構成を変えないといけない。四・三事件というジェノサイドに迫るわけだから、作り手にとって何倍もしんどい作業だと思います。
ヤン 私は解説の映像素材を入れたくないんです。『ディア・ピョンヤン』から、そういうものを1回も使ってないんです。主語を「国」や「社会」みたいに大きくせずに、目の前にいる家族の話から歴史を見せることにすごくこだわっています。
「済州島四・三事件」
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。
金時鐘(キム・シジョン)
1929年朝鮮釜山に生まれ、元山市の祖父のもとに一時預けられる。済州島で育つ。48年の「済州島四・三事件」に関わり来日。50年頃から日本語で詩作を始める。在日朝鮮人団体の文化関係の活動に携わるが、運動の路線転換以降、組織批判を受け、組織運動から離れる。兵庫県立湊川高等学校教員(1973-88年)。大阪文学学校特別アドバイザー。詩人。主な作品として、詩集に『金時鐘詩集選 境界の詩――猪飼野詩集/光州詩片』(藤原書店、2005)『四時詩集 失くした季節』(藤原書店、2010、第41回高見順賞)『背中の地図』(河出書房新社、2018)他。評論集に『「在日」のはざまで』(立風書房、1986、第40回毎日出版文化賞。平凡社ライブラリー、2001)他。エッセーに『草むらの時――小文集』(海風社、1997)『わが生と詩』(岩波書店、2004)『朝鮮と日本に生きる』(岩波書店、2015、大佛次郎賞)他多数。金石範氏との対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(平凡社、2015年 増補版)において四・三事件を体験した記憶を語っている。
朝鮮総連
朝鮮総連(在日日本朝鮮人総聯合会)――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在日本公民団体。終戦直後の1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦、1951年1月結成)を前身とする。1948年の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の樹立後、朝鮮戦争(1950~1953年)を経て南北分断が決定的となるなかで、在日コリアンの北朝鮮の共和国公民(国民)としての帰属を明確に打ち出して1955年5月に結成された。民団(在日本大韓民国民団)は、こうした北朝鮮系の団体に対抗する在日コリアンによって1946年10月に結成され、韓国を支持している。朝鮮総連は、東京都に中央本部を置き、各道府県に本部と下部組織をもつ。民族学校を運営したり、朝鮮人が経営する企業に融資するほか、北朝鮮の窓口としてビザやパスポートの発行業務も行なっている。ヤン ヨンヒの父コンソンは、朝鮮総連大阪府本部の副委員長を務めたあと、大阪朝鮮学園の理事長を務めた。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット 「キーワード解説」(監修 文京洙)より)
帰国事業
帰国事業(帰還事業)1959年12月から二十数年間にわたって続いた北朝鮮への集団移住であり、日本と北朝鮮政府と両国の赤十字によって推進された。朝鮮総連だけではなく、日本のメディアさえも「地上の楽園への民族の大移動」と称賛した。日本社会で差別と貧困に苦しんでいた9万人以上の在日コリアンが、新潟港からの船で未知の国=北朝鮮に渡った。そのほとんどは“南”(韓国)出身者であり、いわゆる「日本人妻」と呼ばれる日本国籍保持者も含まれた。当時、韓国政府は在日コリアンに対して事実上の棄民政策を採っており、経済的にも貧しかった。一方、旧ソ連の後押しもあって経済復興を果たした北朝鮮に人々は希望を託した。日本と北朝鮮の間にはまだ国交が樹立されていないことや、北朝鮮住民の海外渡航の制限もあり、「帰国者」たちの日本への再入国はほとんど許されていない。ヤン ヨンヒの兄3人は、帰国事業によって北朝鮮に渡った。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット「キーワード解説」(監修 文京洙)より)