金 四・三事件というのは、李承晩が大韓民国を作るために済州島を生贄(いけにえ)にしたと思うんです。李承晩政権の背後にはアメリカ政府がいた。それは、大韓民国成立においてとても大きなことです。言い換えれば、四・三事件がなかったら大韓民国は成立していない。島民に対する虐殺の仕方が凄惨(せいさん)なんです。島民の体をまな板の上で乱斬りにするように殺した。人間の肉体と魂までも切り刻んだ。私は、韓国の歴史家の言う1945年の8.15から48年の大韓民国成立の期間を〝解放空間〟と捉える考え方には反対です。あれは〝解放〟ではありません。朝鮮半島の南北分断を固定化する準備期間ですよ。私は〝解放空間〟を真に〝解放〟せよと主張しています。
映画にも出てくるけど、2018年に文在寅大統領が済州島に来て演説を行いましたよね。大きな追悼式典が行われ、四・三事件をしっかり検証する動きは出てきている。でも、犠牲者に対する民生面での補償や、四・三事件を韓国の歴史問題として捉えるところまではできていない。
つまり、韓国の初代大統領の李承晩を誰も否定できないんです。李承晩はアメリカを後ろ盾に祖国の分断を図ったわけです。言わば売国奴のようなことをした男ですよ。文在寅政権の目標の一つは、過去の歴史清算にあったと考えるけど、李承晩政権のほうにまで及んではいなかったと思う。たとえば、日帝時代に親日派だった連中が戦後に親米派に変わる。変わって彼らがいわゆるファシズム政治をやる。そして、四・三の事件に繋がるわけです。その一連の流れを私は『火山島』で書いたんです。過去の歴史の清算というのは、歴史の要求として戻ってくる。そのときに、いま韓国で翻訳出版されている『火山島』が必要になると信じています。
ヤン 石範先生の『鴉の死』を、ずっと前に読んでいました。でも、オモニが四・三事件を体験していたと知ってからは以前の印象とは変わりましたね。自分の母親が小説の舞台になっている済州島にいたんだと思って読むと、小説作品と思えない。小説に出てくる登場人物がどこかでオモニに繋がっているんじゃないのかなとか、心臓バクバクさせながら読むんです。金石範文学は、もっと早くから世界中で読まれてほしかったなと思います。
金 でも、ヨンヒはまだ幸福だよ。世代的に四・三事件のことをまだわかってないからね。深く理解すると、映画作れないよ。まぁ、ヨンヒは深く理解してもそのつらさを乗り越えていい作品を撮ると思うけどね。私にとっては、つらい映画だった。
ヤン 次は、笑える映画を作ります(笑)。いま、BTSや韓流ドラマにはまっている方のごくごく一部でもいいので、この『スープとイデオロギー』を観て、四・三事件のことを知ってもらえるきっかけになればなと、本当に思います。
「済州島四・三事件」
「コレクション 戦争と文学 12 戦争の深淵」(集英社)所収 金石範「乳房のない女」註の記述によると――【済州島四・三武装蜂起】 一九八四年四月三日、アメリカが行おうとした南朝鮮単独選挙に対し、朝鮮半島を南北に分断する選挙だとして済州島で武装蜂起が起きた。前年から左翼勢力封じ込めの名目で米軍政が警察や右翼団体を使い島民を弾圧していたことへの不満も引きがねとなった。この蜂起を武力鎮圧する過程で数万人の島民が無差別虐殺された。
金時鐘(キム・シジョン)
1929年朝鮮釜山に生まれ、元山市の祖父のもとに一時預けられる。済州島で育つ。48年の「済州島四・三事件」に関わり来日。50年頃から日本語で詩作を始める。在日朝鮮人団体の文化関係の活動に携わるが、運動の路線転換以降、組織批判を受け、組織運動から離れる。兵庫県立湊川高等学校教員(1973-88年)。大阪文学学校特別アドバイザー。詩人。主な作品として、詩集に『金時鐘詩集選 境界の詩――猪飼野詩集/光州詩片』(藤原書店、2005)『四時詩集 失くした季節』(藤原書店、2010、第41回高見順賞)『背中の地図』(河出書房新社、2018)他。評論集に『「在日」のはざまで』(立風書房、1986、第40回毎日出版文化賞。平凡社ライブラリー、2001)他。エッセーに『草むらの時――小文集』(海風社、1997)『わが生と詩』(岩波書店、2004)『朝鮮と日本に生きる』(岩波書店、2015、大佛次郎賞)他多数。金石範氏との対談した『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか 済州島四・三事件の記憶と文学』(平凡社、2015年 増補版)において四・三事件を体験した記憶を語っている。
朝鮮総連
朝鮮総連(在日日本朝鮮人総聯合会)――北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の在日本公民団体。終戦直後の1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人聯盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦、1951年1月結成)を前身とする。1948年の大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の樹立後、朝鮮戦争(1950~1953年)を経て南北分断が決定的となるなかで、在日コリアンの北朝鮮の共和国公民(国民)としての帰属を明確に打ち出して1955年5月に結成された。民団(在日本大韓民国民団)は、こうした北朝鮮系の団体に対抗する在日コリアンによって1946年10月に結成され、韓国を支持している。朝鮮総連は、東京都に中央本部を置き、各道府県に本部と下部組織をもつ。民族学校を運営したり、朝鮮人が経営する企業に融資するほか、北朝鮮の窓口としてビザやパスポートの発行業務も行なっている。ヤン ヨンヒの父コンソンは、朝鮮総連大阪府本部の副委員長を務めたあと、大阪朝鮮学園の理事長を務めた。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット 「キーワード解説」(監修 文京洙)より)
帰国事業
帰国事業(帰還事業)1959年12月から二十数年間にわたって続いた北朝鮮への集団移住であり、日本と北朝鮮政府と両国の赤十字によって推進された。朝鮮総連だけではなく、日本のメディアさえも「地上の楽園への民族の大移動」と称賛した。日本社会で差別と貧困に苦しんでいた9万人以上の在日コリアンが、新潟港からの船で未知の国=北朝鮮に渡った。そのほとんどは“南”(韓国)出身者であり、いわゆる「日本人妻」と呼ばれる日本国籍保持者も含まれた。当時、韓国政府は在日コリアンに対して事実上の棄民政策を採っており、経済的にも貧しかった。一方、旧ソ連の後押しもあって経済復興を果たした北朝鮮に人々は希望を託した。日本と北朝鮮の間にはまだ国交が樹立されていないことや、北朝鮮住民の海外渡航の制限もあり、「帰国者」たちの日本への再入国はほとんど許されていない。ヤン ヨンヒの兄3人は、帰国事業によって北朝鮮に渡った。(映画『スープとイデオロギー』公式パンフレット「キーワード解説」(監修 文京洙)より)