子どものことは子どもが答えを持っている
――子どもの権利とは何かを理解するために、個人としてはどこから始めればよいでしょうか。
たとえば、大人同士の関係であればしないのに子どもにはしてしまっている行為、あるいはその逆の行為をやめることです。学校の先生であれば、職員室ではけっしてそんな言葉遣いはしないのに、子どもたちに「てめえら」「お前ら」などと乱暴な呼びかけをしてしまうというのは、やはり子どもを下に見ていると言えるでしょう。自分が間違っていたとき、相手が大人なら謝るのに、子どもには謝らないというのも同じですね。
あと、学校の保護者会に行くと、「お子さんの机の中をチェックしてください」と言われることはありませんか? 親の目配りがまだ必要な低学年のうちはともかく、これは子どもの権利条約第16条に書かれている子どものプライバシー権の侵害です。子どもは親とは別の人間なのに、日本の社会ではそこが曖昧になりがちで、親は子どもを自分の一部のように考えてしまうことが多い気がします。
――そのあたりは、なかなか切り分けができない親も多そうです。
でも、「子どもは自分とは別の人間」「だから、子どもが自分と違う感情を持ったり選択をしたりするのはあたりまえ」と知っていれば、「自分の思い通りにならなくてもしょうがないな」「何もかも自分が決めなくても、この子の考えを聞けばいい」と、親が楽になることもたくさんあると思います。実際、PTAで講演会をすると「子どもの権利について、もっと早く知りたかった」という感想をよくもらいます。たとえば、出産前のプレパパ・ママ教室で子どもの権利について学ぶ機会があると、子どもへの向き合い方もだいぶ変わってくるのではないでしょうか。
あるとき、「うちの子、友達がいないんです」という相談があったので、「休み時間はどうしてるんですか?」と聞いてみたところ、「読書が大好きなので、本を読んでいます」と言うんですね。その子自身は自分のあり方に満足しているのに、「友達は多い方がいい」と思い込んでいる親が不安になってしまっているわけです。
恐らく、親自身もある種の「理想の子ども像」に縛られているところもあると思うんですよね。学校に「明るく・元気に・すこやかに」といった標語が掲げられていたりしますが、「明るくて元気で友達が多い」みたいな、社会的に求められている子ども像を自分の子どもに求めてしまうことはないでしょうか。でも、冒頭でも述べたように、人権の基盤であり子どもの権利の前提となる考え方は「人はひとりひとり違うし、大事なのはその人がその人らしくいられること」です。明るい子も物静かな子も、友達といつも一緒な子もひとりでいるのが好きな子も、子どもたちは誰もがその子らしく生きる権利があります。もし、この相談者の方がそのことに気付けば、「休み時間、友達と過ごすことが楽しい子もいれば、本を読むのが楽しい子もいる、それでいいんだ」と思うことができるのではないでしょうか。
――「権利」と聞くとつい身構えてしまう人も多いかもしれませんが、「子どもの権利を知ることで大人も楽になれる」と考えるといいのですね。
それを示すデータも海外では出ています。子どもの権利を守る実践をしているイギリス・ハンプシャー州の学校では、子どもが自分の権利を知り、相手の権利を知ることで、子どもたちが尊重し合うようになり、いじめや相手が嫌がるような行動、不登校が減ったことがわかっています。自分の権利が守られていれば、子どもたちは不安感から問題行動に出ることも少なくなるし、相手の権利も大事に思えるということでしょう。また、意見を聞かれるようになったことで授業への参加率や成績が上がり、その結果、教職員の燃え尽き症候群や退職も減りました。この事例から見えてくるのは、子どもの権利を守るようにすれば、子どもはもっと積極的にいろいろなことに関わるようになり、大人もそれだけ楽になるはずだということです。
ただ、日本では大人自身が子ども時代に子どもの権利を守られて育ってきていないので、やはり意識していかないと実践が難しいのは確かです。私も普段から我が家のリビングの目につくところに、子ども向けにわかりやすく書かれた子どもの権利条約の条文を貼っていて、子どももそれを見て育っています。後から「あのときの言動はまずかった」と気づいて子どもに謝ることもありますが、そんなふうにトライアンドエラーで子どもと共に学んでいくことが大切だと思っています。