採用や待遇における性差別を禁止した男女雇用機会均等法は、働く女性に一定の恩恵をもたらした。しかし、そこから40年が過ぎても女性の収入が男性の8割以下に留まっているのは「均等」だと言えるだろうか。後編では、日本の政治や社会が女性の働きをどのように扱ってきたのかに迫る。
「成功した均等法第一世代」は、多くても3%
1985年5月に成立し、翌年に施行された「男女雇用機会均等法」(以下、「均等法」)。前編で見てきたように、同法によって、それまで男性に限られていた「総合職」に女性枠が設けられ、少数であっても、各企業に総合職の女性が生まれた。
この「均等法第一世代」もしくは、「総合職第一世代」の女性たちを、長年、女性の働き方や経済状況に着目してきた社会学者の宮本みち子さんはこのように見ている。
「彼女たちの一部は、今まで女性には許されなかった“給与が高く、企業活動の中核を担う仕事”に就き、最終的にはいいポジションで定年を迎え、定年後もキャリアを活かして仕事ができています。ただし、そういう女性は数としては極めて少ない」
国が5年ごとに公開している「就業構造基本調査」に、こんな数字がある。1985〜89年度に大卒で就職した、均等法第一世代を含む年齢層の女性たちは、2017年度には50〜54歳に達している。2017年度の統計によれば、この年齢層の女性有業者311万5400人のうち年収800万円超は7万4900人で、わずか2.40%。つまり、均等法第一世代のなかに十分な経済力を手にできた女性がいるにしても、その割合は最大でたったの3%にも満たない。一方、同じ年齢層で年収300万円未満の女性有業者は218万3800人で、女性有業者の70.10%。圧倒的に多くの同年代女性は低収入の状態に置かれていることがわかる。
参考までに、2017年度の50歳〜54歳の男性有業者を見れば、年収800万円超は92万5900人で、男性全体の24.33%。一方、年収300万円未満は69万2700人で、男性有業者の18.20%。女性とのあまりの格差に、目が眩む思いだ。

雇用形態に着目すると、2017年度の45〜54歳の女性有業者の場合、正規雇用は約250万人、非正規雇用約370万人となっており、多くの女性が非正規労働という枠に押し込められていることがわかる。多くの女性の年収の低さは、この雇用形態に由来する。男女差に注目すると、非正規雇用の男性有業者は約62万人で、女性の6分の1程度である。

均等法が成立し、法としての整備が進んで「みにくいアヒルの子」から「白鳥」になったと言ってもなお、これだけの男女の賃金格差が存在し、雇用形態においても多くの女性は非正規という、「均等法の枠の外」に置かれている。
つまり、「ちゃんとした会社」で正規雇用者として働く女性であれば、均等法の恩恵を受けることができているのだが、その枠に入ることのできない多くの女性は、社会保障もない、低賃金の不安定労働に就かざるを得ない社会なのである。
均等法は、一部のエリート女性には“光”となった。だが、その“光”の届かない場所に、今も多くの女性が押し込められているのが現実だ。
女性の労働の足枷となる「家族依存型モデル」
なぜこの国の女性は、こんなにも歪(いびつ)な状況に追いやられているのか。
戦後になり、男性の多くが会社員となって以降、日本の女性は「家族依存型モデル」に押し込められた。戦前、夫婦は農業や家内工業、商店などでともに働き、家事や子育ては祖父母が担うケースが主流だったが、戦後になると「専業主婦」が生まれる。夫婦ともに働くのではなく、夫が妻を養い、代わりに妻は家事、育児、介護などの家庭内福祉を担うというかたちを強いられた。女性は娘である頃には父に、妻となってからは夫に、老母となってからは息子に養われる存在となった。
このモデルは、労働状況にも反映されていた。そもそも女性は一生の仕事を持つ存在ではなく、結婚前の短期間だけ働き、結婚後は家庭に入るものとされた。ゆえに職業はパートなどの非正規職か、公務員などの正規職であっても給与が安く、出世の芽がなく、補助的な労働を担う「一般職」で十分。「家族を養わなければならない」男性だけが、将来の幹部候補として「総合職」に充てられた。
均等法はこの壁を法律上、取り払った。しかし、第一世代で総合職を得た女性たちも、このモデルと完全には無縁でいられなかった。
「男性たちが行ってきた長時間労働という働き方はそのままで、しかも社会構造や家庭のあり方が全く変わっていない状況で、女性に男性と同じように働けと言っているのです」と宮本さんは言う。
確かに、高度経済成長期以来、男性たちは長時間労働を当然のこととして働いてきた。家庭のことは全て妻に任せ、自分や子ども、老親をケアし、家事をしてくれる存在を前提に、仕事だけをしていれば良かったのだ。では、ケア労働を代わりに担ってくれる存在がいない女性たちは、「男性並みに働け」と言われたらどうすればいいのだろう。
宮本さんは、「子どもの出生年別、第1子出産前後の妻の就業経歴」という一つの統計を示してくれた。この統計では、妻が総合職かどうかはわからないが、第一世代が20代で長子を出産したとすると、「昭和60年〜平成元年」(1985~89年)に第1子を出産したクラスターに該当する。
「第一世代の年代で、第1子出産後も就業を継続できている女性は2割超です。“実家の母”が全面的に子育てを手伝ってくれて仕事に専念できた、という話も聞きますが、基本的には、出産後も仕事を継続できる女性は非常に少なかったと考えられます」(宮本さん)
就業を継続できなかった女性のうち、子育てを終えてまた正規職に戻ることができた女性も、その後の不況を考えれば稀なケースだっただろう。

家族依存型モデルの強化
1979年に政権与党である自民党が打ち出した、「日本型福祉社会」構想は、家族依存型モデルを一層強化する。ここで打ち出された基本方針は、福祉を担うのは家族であって、国は最終的に登場すればいいということだ。国はできるだけ、福祉に予算を割かなくて済むようにしていくことが「日本型福祉社会」の目的である。つまり、福祉の基本を「公助」ではなく、「自助」に据えたのだ。
均等法が成立する前月である1985年4月、この方針に沿って、ある制度が創設された。あたかも雇用現場における男女平等を謳う法律ができる前に、何としても作らなければいけないというかのように。それが、国民年金における「第3号被保険者制度」だ。これまで日本には、「第3号被保険者」は存在しなかった。「第1号」は自営業や農業者などとその家族、学生などの国民年金加入者を指し、「第2号」は民間の会社員や公務員など、厚生年金や共済の加入者を指す。新たに作られた「第3号」とは、「第2号被保険者」に扶養されている配偶者のことだ。働いていない専業主婦が、どうやって年金を納めるのか。国は「納めなくてもいいよ」と、この制度を作った。自分で保険料を納めなくても、妻たちには年金を支給するという仕組みが日本社会に初めて登場したのが、均等法成立前夜のことだった。
ほかにも、80年代には日本型福祉社会構想に基づき、専業主婦やパート労働を行う妻への優遇策が次々と作られた。相続における「寄与分」制度の創設(80年)、「遺族年金」制度の導入(85年)、「配偶者特別控除」の創設(87年)と、夫の扶養下にある女性を「優遇」するという明確な姿勢を、国はどんどん制度化していった。また、夫という大黒柱がいるという理由で、妻たちが行う労働は“低賃金の非正規労働で良し”とされた。
一方、85年は母子家庭に対する政策への大転換を行った年でもあった。「児童扶養手当」に初めて全額支給の他に、一部支給という制度を導入し、国は児童扶養手当の大幅な削減に踏み切ったのだ。
これが、日本という国が示した、女性への紛れもない姿勢である。家事や育児、介護を担い、夫を看取った妻には「ご褒美」を与えるが、母子家庭の生命線である児童扶養手当を削減することで、離婚という選択を困難にし、実際に離婚した女性たちの生活を圧迫する。シングルマザーは子どもをケアする存在でもあることが、政策からすっぽりと抜け落ちている。当時、全国のシングルマザーの大きな反対があったにもかかわらず、国は強行した。その国がシングルマザーへどのような態度で臨むかは、その国の女性への眼差しそのものだとも言われる。
国が大事にしたいのはケア労働を一手に担う、「妻」たちだったことがよくわかる。この時期に、女性は大きく分断され、女性間の格差もまた広げられた。必要十分な収入があり、老後の心配がない女性。収入は少ないが、扶養者と手厚い保障がある女性。扶養者がなく、収入も少なく、保障もない女性。現在の女性の貧困へとつながる種は、ここでこうして蒔かれていたのだ。