ひげが生え乳房がふくらむ
ホルモンは古典的な定義では、からだの特定の組織(内分泌腺)でつくられて血流にのって標的となる細胞にとどき、細胞上にある受容体と結合して作用をあらわす物質だ。受容体とは、ホルモンが鍵であるとすると、それと対になる鍵穴のような役割をする分子構造のことである。よく知られている内分泌腺とホルモンとの組み合わせには、膵臓から分泌されるインシュリン、副腎から分泌されるアドレナリン、脳下垂体から分泌される成長ホルモンなどがある。男性では精巣から男性ホルモン、女性では卵巣から女性ホルモンが分泌される。男性の顔にひげが生えてきたり頭髪が薄くなったりするのは、からだの中に男性ホルモンが存在するからのみならず、これらの部位に男性ホルモンの受容体が発現しているからである。また、女性の乳房が大きくなるのにも、女性ホルモンの存在だけではなく、乳房のふくらむ部位に女性ホルモンの受容体が存在していることが必要である。
これらはからだの末梢でのホルモンのはたらきだが、脳の中でもホルモンが分泌されたり、神経に対してはたらいたりすることが確かめられ、近年研究が進んでいる。行動や感情、記憶などに対するホルモンの影響には反応時間の短いものがあり、神経と神経を結ぶ神経伝達物質のようなはたらきをするケースが明らかになってきた。
フェロモンが異性をひきつける
ホルモンは同じ個体の中で生体情報を伝達する物質だが、フェロモンは「ある個体から放出され、同種の他個体に特異的な反応を引き起こす化学物質」と定義される。不揮発性の物質の場合も揮発性の物質の場合もあり、においがあるとも限らない。カイコガ、イモリ、キンギョ、ブタなどで異性をひきつけて交尾にいたらせるフェロモンの存在が知られており、一般にも「性的な誘引要因」というような意味合いで理解されていることが多い。しかし、フェロモンのはたらきは性行動に関するものばかりではない。ゴキブリの駆除のための誘引剤として用いられているのは、ゴキブリの集合フェロモンである。ミツバチが外敵に対する攻撃を仲間に促す攻撃警報フェロモン、アリがえさのありかを仲間に示す道しるべフェロモンなどもある。
メスが交尾を受け入れるとき
このようにホルモンとフェロモンは定義上別物であるが、互いに関係がないわけではない。例えば、男性ホルモンが代謝されてできる派生物質であるアンドロステノンは雄ブタの唾液(だえき)中に含まれる物質であり、発情したメスに立ち止まって交尾を受け入れる体勢をとらせる(不動化)フェロモンとして知られている。ヨーロッパでトリュフ狩りにブタが用いられるのは、トリュフにアンドロステノンが含まれており、ブタがこれを求めるのを利用しているのである。アンドロステノンはアメリカボウフウ(パースニップ)やセロリにも含まれている。
気分をよくして注意を持続させる
ヒトもアンドロステノンなど性ホルモンの派生物質をからだから分泌しており、フェロモンとしてのはたらきがあるのではないかと研究が進められてきた。これらの物質にはヒトの気分をよくする、対象物への注意を持続させるという効果はあるようだが、ゴキブリを集合させたり、ブタを交尾に導いたりといった動物の事例から連想されるような、ヒトの行動を自動的に引き起こす物質の存在は知られていない。このほか、化学コミュニケーションの担い手として研究がすすめられているものに、主要組織適合性複合体(MHC)によってかたちづくられる体臭の個体差がある。生物のからだが自己と非自己を識別する鍵となる分子をコーディングしている遺伝子領域である、MHCのタイプがマウスにおいて体臭の違いを生じさせ、交尾相手の選択にかかわっていることが知られている。
ヒトでもMHCに相当する遺伝子が魅力の判定にかかわっていると報告されているが、これも自動的に行動を引き起こすような性質のものではない。ヒト以外のほ乳類でフェロモンを感じ取るのに用いられている器官は、ヒトでは退化してしまっているのである。
男性ホルモンの多い人は性欲が強い?
男性ホルモン濃度の高い人は性欲が強いのだろうか。イエスでもありノーでもある。健康な男性の場合、正常な性行動を行わせるのに十分な量の男性ホルモンを持っており、極端に濃度が高かったり低かったりするのではない限り、男性ホルモンの濃度と性欲の強さの個人差には明確な関連は見られにくい。個人差には男性ホルモン濃度以外のさまざまな要因が関係しているからである。しかし、個人内での性欲の変化に関しては、ホルモン濃度とより直接的な関係を見いだせる可能性がある。例として、「性犯罪者は男性ホルモン濃度が通常よりも高すぎる」というのは一般論としては言えない。男性ホルモン濃度自体の高さよりも、衝動を抑える神経メカニズムに問題がある可能性の方が高い。しかし、「男性ホルモン濃度を抑制することにより性犯罪者の再犯防止が期待できる」というのは正しい。
ほ乳類のオスでは去勢したからといって一切の性行動が消失するわけではなく、去勢後かなりの長期間にわたり交尾が可能なケースがあるのは事実である。しかし、性的な動画やパートナーからのはたらきかけなどの、外部刺激によらない自発的な性的興奮頻度や興奮の持続力は明らかに低下し、性的空想も減少するため、再犯率を大幅に下げる効果があると言えるのである。
興味本位の話には注意を
ホルモンやフェロモンの行動に対する影響の話題は、身近で興味をひくだけに雑学としてさまざまな場面で流布している。しかしこれらの物質のはたらきは単純ではなく、他のさまざまな物質や個体の経験によってあらわれ方が調節されている。行動の生物学的な基盤に関する知識がステレオタイプや人生論に安直に結びつけられるのを避けるためにも、より正確な知識の探求・教育がますます必要となってくるだろう。