「匂い」は生命を支える
人間だけではなく、もちろん他の生きものにとっても、匂いは重要なもの。多くの動物、昆虫、魚などにとって、匂いは生命の維持に直接的に関わると言っていいほどのものです。
動物は嗅覚で危険を察知したり、敵味方を区別したり、異性を判別したり、食物を探したりします。匂いを使って周囲の状況を把握し、また、仲間とコミュニケーションを取っています。私たち人間は進化の過程において言語を獲得し、視覚での情報取得にも優れているため、匂いでの情報収集やコミュニケーションをあまり必要としなくなりました。
しかし、人間にとって、嗅覚は今なお欠くべからざるものです。というのは、嗅覚は五感の中でもっとも直接的に本能と情動に働きかける感覚だということが、最近の研究でわかってきたのです。匂いを嗅ぐと、その信号が神経を伝って、脳の中で本能や情動をつかさどっている辺縁系に到達します。他の感覚も同じように辺縁系に向かいますが、嗅覚はもっとも到達速度が速いため、本能や情動に訴えかけやすいのです。また、嗅覚だけが情動や記憶に直結する神経回路を持っており、さらには内分泌ホルモン系にも作用することがわかりました。
人間は、何かの匂いをきっかけに、考えるよりも先に情動が変化することがあります。これは、脳内の神経伝達物質やホルモンの変化という生理現象が、匂いによって引き起こされるからなのです。無意識のうちに、人は「匂いに心動かされている」と言っていいでしょう。
無限ともいえる「匂い」が秘める潜在力
このように不思議な力を持つ匂いとは、いったい何なのでしょうか。その正体は化学物質です。炭素、水素、酸素、窒素、硫黄などの原子がつながった分子で、比較的低分子で揮発性の化学物質を匂い物質といいます。匂い物質は世の中に数十万種類あるとされていて、組み合わせも無限大。ただし、そのすべてを人間が感知できるわけではありません。匂いとして感じるためには、鼻の中にある数百種類のセンサー(嗅覚受容体)が、匂い物質の受容体として働かないといけないからです。センサーの数も種類も、生きものによって違います。人間には感じられない匂いも犬なら嗅ぎ取れることはよく知られていますが、これは人間にはないセンサーが、犬の鼻には備わっているからです。しかしこれは、人間のほうが犬よりも「鼻が悪い」という話ではありません。たとえば、硫黄の匂いなどは、犬よりも人間のほうが敏感に察知します。生きものの種によって鼻の中にあるセンサーが違うため、嗅ぎ分けられる匂いの種類や数にも違いが出るということなのです。
同じ人間ならば、センサーの数も種類も大差がありません。ところが、匂いの感じ方も表現も、一人ひとりで異なります。同じ匂いを嗅いでも「畳のような匂い」「湿った木のような匂い」など、個々人で表し方が違うのです。匂いの感じ方には人それぞれの経験が作用することが、このように表現が違ってくる主な理由です。匂いと記憶は分かちがたく結びついていますから、ある匂いを嗅いでそれを言葉にしようとするとき、人は過去の経験からたとえを拾ってこようとするわけです。
いろいろな匂いを知っていくと、それだけ匂いの世界は無限に広がっていきます。普段から匂いを感じようと心がけていれば、これまで意識していなかった匂いにも気づくようになります。また、年齢を重ねて経験を積むと、嗅覚が研ぎ澄まされる場合もあります。実際、さまざまな匂いのテストをすると、他の年代に比べて高齢者のほうがよい成績を出すことがあるのです。
また、嗅覚受容体を出している嗅神経細胞は、加齢によってなくならない細胞です。他の神経は18歳以降は少なくなっていき、新しく作られることはないのですが、嗅神経細胞は人体の神経の中で唯一、生涯にわたりどんどん生まれ変わっていくという特徴を持っています。もちろん、老化現象として神経全体の数が減っていくので、嗅覚の感度も劣ってはいくのですが、経験によってカバーできるのは五感のうち嗅覚だけといえます。
恋愛と「匂い」にまつわる不確定性
鼻に備わったセンサーの数は同じでも、嗅覚には個体差と性差があります。一人ひとり匂いの好き嫌いがありますし、また、全体的には女性のほうが匂いに敏感だと言われています。女性には性周期があるためにホルモンの分泌に変化があって、匂いに気が付きやすくなる時期があるのだと考えられています。
女性と男性では、好ましく思う匂いも違っています。たとえば、バラの香りを好む女性は多いのですが、男性は比較的少ないです。いい香りだからきっと周りが好むだろうと思って香水をつけていても、実は異性からは不快に思われていた、ということもあり得ないことではありません。香水だけではなく、体臭ももちろん人の情動に作用します。恋人と別れた原因として「今になって考えてみると、なんだかあの人の匂いが好きじゃなかった」と打ち明ける人もいるのです。匂いによる人間同士の相性は、確実にあると思います。
強い体臭を作り出すものは、主にアポクリン腺という臭腺から出される匂いです。アポクリン腺は脇の下などにあります。日本人にはアポクリン腺は少ないのですが、西洋人には多い。逆に中国人でアポクリン腺がある人は皆無です。アポクリン腺からの強い匂いは「わきが」と呼ばれます。
とはいえ、体臭はさまざまな匂いが複合的に組み合わさってできるもので、アポクリン腺からの分泌物だけで成り立ってはいません。日々の食事で肉が多いか野菜が多いかによっても数日単位で体臭は変わりますし、特定の香辛料を多く食べる地域の人は体からもその匂いがします。また、普段使っている洗濯洗剤やせっけん、シャンプーといった生活臭も入り混じって、その人の匂いができています。ですから、生活環境が変われば、ある程度、人の匂いは変わります。匂いとは実に複雑なものなのです。
「恋愛を成就させるようなフェロモンは人間にもありますか? 作れますか?」といった質問をよく受けます。異性をひきつける性フェロモンは人間にはない、というのが回答です。