カイコガには性フェロモンがあり、1匹のメスと複数のオスを一緒に入れておけば、すべてのオスがわらわらとメスに群がってきます。不特定の異性を交尾のためにひきつけるのが性フェロモンです。同じことが人間社会で起きたらどうでしょう? 特定の人の周りにすべての異性が群がってくるなんてことが起きたら、その人は恐怖するに違いありません。
特定の異性に「この人が好き」という感情を起こさせるのは、性フェロモンではありません。もしかしたら、そのような感情が起きる背景には個々人の体臭の違いが潜在的に関わっている可能性もありますが、現在のところ解明されてはいません。
人間の体臭には遺伝子がある程度関わっていることは確かです。犬は人間の一卵性双生児の匂いの違いを嗅ぎ分けられないという実験結果があります。これからわかることは、同じ遺伝子を持っていれば同じ匂いがするはずだということです。そこまではわかっているのですが、体臭の個体差を、遺伝子がどこまで決定しているのか、そのメカニズムは不明なのです。ですから、現状で言えることは、もしも誰かに好かれたいならば、その人の好きな香りを身にまとえばいい、ということにとどまります。
食を支える真の立役者は「匂い」
無意識的にも人間に影響を及ぼす匂いですが、意識に上りやすい匂いといえば、まず食事が挙げられます。おいしさは舌で感じている、つまり味覚だと考えている人が多いのではないかと思います。しかし、これは間違いです。人がおいしいと感じるとき、反応しているのは嗅覚です。人は舌ではなく、鼻で味わうといってもいいのです。
小さい頃、好き嫌いをしていると「鼻をつまんで食べなさい」と言われた記憶はありませんか? 実際にそうしてみると、味を感じず飲み込めたのではないでしょうか。また、風邪をひいて鼻が詰まると、いつもと同じものを食べても味がわかりません。このように、味というものは、舌よりも鼻が大きく関わっています。食べ物の好き嫌いは、食材の匂いが主な原因です。ですから、本当は食事について表現するとき、“味”ではなく“風味”という言葉を使ったほうが正確なのです。
人が本音で「おいしい」と言っているのか、それとも建前なのかを見抜く方法をお教えしましょう。本当においしいときには、鼻梁のわきあたりが「ひくひく」とかすかに動いて、香りを楽しんでいる様子がわかります。そしてその後に、その人は「おいしい」と言葉にするでしょう。もしも誰かが、食べ物を口にいれた途端に「おいしい」と言ったなら、それはうそ。まだ風味を感じられていないうちに、お世辞で言っているのです。
人間生活の豊かさを支える「匂い」
ところで、風味を楽しみ、おいしいと感じながら食事をしているのは人間だけです。食べものを飲み込むと、のど越しからすっと香りが抜けてきますが、これは体の仕組みと関係があります。人間は食道と肺への気道が喉で交差しているので、飲み込むときに一度気道の弁が閉じられ、再び弁が開くと同時にぱっと香りが鼻に通るのです。たとえば、ネズミや犬は気道と食道が別々ですから、呼吸しながら食事ができます。犬は人間よりも鼻が利いて、匂いをたどって食べものにありつくことができますが、いざ食べる段になると、味わってはいないのです。
おいしさだけでなく、心地よさにも匂いは大きく関わります。代表的なのはアロマテラピーです。アロマ効果でリラックスができることを経験的にご存じの方も多いのではないでしょうか。ラベンダーは心を落ち着かせる、とよく言われます。ラベンダーの匂いには、人を落ち着かせるホルモンの分泌を誘引する作用があるからです。この生理変化は万人に起きます。しかし、前述したように匂いの感じ方には個体差が大きく、また記憶にも影響されますから、すべての人がラベンダーで気が楽になるわけではありません。たとえば、個人的にラベンダーに嫌な思い出のある人は、ホルモン分泌という生理変化は表れていても、嫌な記憶のほうが想起されてリラックスなどできないでしょう。
匂いは情動に影響を及ぼしますが、自分自身のそのときの状態や体調によって、匂いの感じ方にもまた違いが出ます。ですから、アロマを選ぶときには、効能の説明書きをあてにするのではなく、実際に何種類かを嗅いでみて、そのときにもっともいい匂いだと感じるものを使いましょう。食べものと同じで、体が欲しているから、その匂いを好ましく思うのです。
嗅覚は、幸せな食事と健康的な生活、そして空間の心地よさに直接関わるものです。五感をバランスよく豊かに使って暮らしているのは人間だけです。嗅覚の研究が今後一層進み、脳や神経回路、遺伝子との関連性まで明らかになってくれば、私たちの生活はより充実したものとなるでしょう。