「ヒクソンvs.船木」が原点
なぜなら、石井は高校生の時から「自分は総合格闘技をやる」と公言していたからだ。彼が柔道を始めたのは小学校5年生のころだが、13歳の時に観戦したヒクソン・グレイシーvs.船木誠勝(2000年5月26日「コロシアム2000」、ヒクソンのチョークスリーパーで船木は失神し、引退を表明)の試合が「自分の総合格闘技熱の原点」としている。つまり、柔道を始めてわずか数年後に総合格闘家を志す気持ちが芽生えていたのだ。これまでにオリンピックで金メダルを獲得した日本人柔道家がプロに転向した例は、バルセロナ(1992年)の吉田秀彦、シドニー(2000年)の瀧本誠の二人のみ。しかし、両選手とも柔道家としてのピークを過ぎてからの転向であったことは否定できない。石井は金メダルを取った直後であり、次回のオリンピックでもメダルが期待されていた存在。加えて22歳という若さもあり、吉田の32歳、瀧本の30歳での転向と比べても大いなる可能性を感じさせる。柔道家としての絶頂期にあえてプロへ転向したのは、総合格闘技で世界最強の男になるという意気込みの表れだ。
総合格闘技の高すぎるハードル
総合格闘技が世界的に広まるきっかけとなった1993年11月12日の「第1回UFC」から16年、この間に総合格闘技は飛躍的な成長を遂げた。黎明(れいめい)期ならともかく、現在ではオリンピックや世界選手権でメダルを獲得した柔道やレスリングの選手、あるいは大相撲の横綱や、ベースとして適した競技であるブラジリアン柔術の強豪が転向しても、すぐには通用しないレベルにまで到達している。プロボクシングの元世界チャンピオンやキックボクシングの世界チャンピオンも同様。総合格闘技の技術体系である打(パンチ、キックなどの打撃)、投(投げやタックルなどテークダウンを奪う技)、極(関節・絞め技)がそろっていなければ、現在の総合格闘技で勝つことは至難の業だといえよう。ましてや、多くの他競技からの転向組がそうであるように、30歳を過ぎてからの転向では覚えなければならない技術・戦略が多すぎて対応しきれないのである。UFCは、日本で広く知られている総合格闘技とは違い、4本ロープのリングではなくオクタゴンと呼ばれる八角形のケージ(金網)で試合が行われる。さらにヒジによる攻撃が認められていて、より過激なルールだと言えるだろう。石井は国内の道場・ジムで総合格闘技やキックボクシングの練習を積んでいるほか、アメリカの名門ジムであるアメリカン・トップチームへの出げいこも敢行。来るべきデビュー戦(2009年秋が有力とされている)へ向けて急ピッチで準備を進めているが、柔道家の課題である打撃の攻防を始めとして覚えなければいけないことは山ほどある。
ファイトマネーのためじゃない?
また、石井がプロに転向したのは金銭のためという憶測もあるが、決してそうとは言い切れない。なぜなら、単純に高額の契約金やファイトマネーを得たいのならば日本の格闘技イベント「DREAM」や「戦極」に出た方がいいからだ。抜群の知名度と話題性を鑑みれば、日本の団体が億単位の契約金を支払っても全く不思議ではない。当然、マッチメイクに関しても実力に見合った相手や、もし負けても復帰戦の舞台を用意するなどの救済措置をとってくれるだろう。ところが、UFCではそうはいかない。試合内容がよくなかったり、負けが続いたりすれば解雇となってしまうのである。ファイトマネーもランク分け(勝敗や試合数による)によって格差があり、例えば「UFC64」に出場した日本人の弘中邦佳は6000ドル(約54万円)だったが、彼に勝ったジョン・フィッチは2万ドル(約180万円)を手にしている。石井の場合、オリンピックの現役金メダリストという付加価値があり、UFCを運営するズッファLLCのダナ・ホワイト社長が石井を大会に招待して会談を行うなどしているため、デビュー戦から高額なファイトマネーになる可能性もあるが、日本の団体よりも厳しい条件になることは間違いない。デビュー戦の舞台は用意されても、先の保証はないのだ。
“世界最強”を証明するために
それでもなぜ石井がUFCを目指すかというと、UFCこそが現在“世界最強”を決める場所となっているからである。ラスベガスでカジノを経営する会社が母体であるUFCは05年ごろから急速に力を付け始め、06年5月27日のマット・ヒューズvs.ホイス・グレイシーをメーンにした「UFC60」はPPV(ペイパービュー)が60万件以上を記録したと言われ、その年の総売り上げは2億ドルを超えたとされている。その人気はアメリカだけにとどまらず、ヨーロッパ諸国や韓国でもUFCは放映され高い人気を誇る。唯一、UFCに対抗できるプロモーションとして日本の総合格闘技イベント「PRIDE」があったが、そのPRIDEも07年3月27日にズッファ社に買収された。その後、日本でもおなじみのファイターであるミルコ・クロコップ、ヴァンダレイ・シウバ、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラなどがUFCに戦場を移したが、いずれも芳しい戦績を収めていない。それほどレベルの高い、巨大な壁に石井は孤独な闘いを挑もうとしている。
ヘビーかライトヘビーか?
石井は最重量級であるヘビー級でチャンピオンになることが世界最強の証明と考えているようで、現在UFCではWWE(World Wrestling Entertainment)のトッププロレスラーであったブロック・レスナーがチャンピオンの座に就いている。しかし、ダナ・ホワイト社長はライトヘビー級での参戦を薦めており、こちらはラシャド・エヴァンスが現チャンピオン。ライトヘビー級は選手層が厚いため、ヘビー級の方が頂点への階段は短いと言えるが…。それでも怪物クラスがいることに違いはなく、平坦(へいたん)な道のりではない。今まで日本人は誰一人として到達していないUFCの世界の頂点、石井はそこへだどり着くことが出来るだろうか。