18歳は成人なのか?
2009年7月29日、政府の法制審議会民法成年年齢部会がまとめた最終報告書は、民法の成年年齢(成人年齢)を、選挙権年齢の引き下げを前提に、現行の20歳から18歳に引き下げるのが適当とし、大きな話題を呼んだ。政権交代により時期は先送りとなったが、いずれ法制審総会で承認されれば法相に答申されることとなる。サミット参加国の中で、成人年齢を20歳と定めているのは日本だけで、他国はおしなべて18歳だ。日本もそれに足並みをそろえる、と考えれば大きな問題もなさそうだが、若者のみならず中高年の未熟化が懸念される今、あえて成人年齢を引き下げなくても、といった心理的抵抗を示す人も多い。
もちろん、心理的理由のみならず、現実的な問題もいろいろ考えられる。18歳で法的に成人となれば、選挙権以外にもたとえば、契約書へのサインなども親の同意なしでできることになる。言葉巧みに高額商品を売りつける悪徳商法が大きな社会問題になっているが、判断力や社会的経験が十分ではない18、19歳がその被害にあう危険性も高い。また、多くの若者は高校3年時に18歳を迎えることになるが、同じ学年に「成人」と「非成人」が混在していると指導に混乱が来される、と懸念する声もある。
年齢だけでは決まらない成熟度
心理学や精神医学には、実はこの「成人は何歳からか」といった議論はほとんどない。人生を8つのステージに分けて考察した自我心理学者のエリクソンは、「青年期」を「22歳ごろまで」とし、それに続いて「成人期初期」を設定してはいるが、性差、個人差、文化や民族の違いを十分に考慮すべきで、年齢だけによってその二つの段階を区別するのは好ましくないとされている。エリクソンは、各ステージにはそれぞれ取り組まなければならない「発達課題」があるとしたが、青年期のそれは「“同一性”対“同一性拡散”」だとしている。つまり自己の価値観、将来の夢、希望の職業、自分らしさといった自己同一性を見つけようとしながらも、自分が何者か、何をすべきか、何をしたいのかわからない、と同一性拡散にも悩む、それが青年期の最大の課題だとしたのだ。そして、そこにある程度の決着がついた段階で、青年は初めて次のステージ、つまり成人期に移行することができる。
日本の大人度の現状は?
診察室で診ていると、今やこの青年期はどんどん延長される一方で、極端なことを言えばずっと「自分とはいったい何者なのか、自分がわからない」と悩み続ける“永遠の青年”も珍しくない。かつては、思春期の病と言われた摂食障害やリストカットだが、現在は40代以上のケースも日常的に見られる。彼らは自分の問題で精いっぱいで、まわりの人たちや社会全体のことにまでとても目が向けられずにいる。エリクソンが考えたような「自己同一性の確立」をもってして成人の条件とするならば、その年齢を20歳より大きく引き上げなければならない。と言うより、何歳まで引き上げたところで十分ではない、ということになる。
そう考えると、真に成人にふさわしい年齢などなく、それはその社会が何らかの意思や意図を持って制度として設定するもの、と言える。だとしたら、たとえば「いち早くひとりの大人として自立してほしい」という期待と願望をこめて、ここはあえて成人年齢を現行よりも引き下げる、という選択があってもよいのではないだろうか。
あえて成人年齢の引き下げを
最近、大学生あるいは社会人になっても実家にとどまり、子ども時代と同じように生活面、心理面で親に依存しながら暮らす人たちの増加が目立つ。診察室でも、30代、40代となって結婚して子どももいるような男性や女性の診察に、その親が同伴し、本人に先んじて「ウチの子はとてもやさしくて……」などと状況を説明するということが日常茶飯事となった。親子がいつまでも親密なのは悪いことではないが、やはり親の側も子の側も、自立の意識を忘れてはならないはずだ。密着親子、依存親子への“荒療治”として「18歳で成人」という制度を作れ、というのも、やや乱暴にすぎるかもしれない。ただここで、「高校を卒業するくらいの年になったら、あとは大人として責任を持つ」という考えや制度について広く議論してみるのは、とても意義あることだと思う。その場合、大人だけが議論に参加するのではなくて、当事者である高校生、これから青年期を迎える小学生、中学生の意見もきいてみることが必要なのは言うまでもない。