地域支援に尽くした部員たち
釜石シーウェイブスのグラウンドなど本拠地は、さいわい震災による被害を免れた。ライフラインを断たれると、部員とその家族はクラブハウスに集結、かつて自衛隊のサバイバル部隊に所属したメンバーらが指揮を執り、薪(まき)を集め、食材を持ち寄り、トンガ出身の選手は遠い故郷の大家族向けの料理をこしらえた。新日鐵をはじめ勤務先のあるアマチュア選手は、おのおのの持ち場で復旧支援に尽くし、夜はクラブハウスへと帰った。元ニュージーランド代表オールブラックスのピタ・アラティニら外国人選手の多くは、大使館から救援車両の手配があったのに、家族だけを乗せ、自らは釜石に残留。救援物資の運搬などに力を合わせた。ラグビー的な協調精神は母国のメディアでも大きく報じられた。
一口2000円の会員が支えるクラブ
栄光の新日鐵釜石のメンバーも行動を起こした。2011年5月、元日本代表キャプテン、松尾雄治氏、伝説の名FW(フォワード)、石山次郎氏らが中心となり、シーウェイブスの支援組織「スクラム釜石」を立ち上げる。クラブは、おもに地元の一般・法人会員の会費により運営されてきた。被災による経済状況の影響は免れない。そこで知名度のあるOBたちが先頭に立ち、全国区での会員募集に奔走している。目標は「会員1万人」だ。引退後、ほとんど表に出ることのなかった石山代表は発足会見で言った。
「シーウェイブスの選手たちは、本当に純粋なんです。ただラグビーがしたい、ただ勝ちたいという気持ちで仕事と両立させている」
一部プロ契約の選手を除けば、多くは、地元でさまざまな職業に就きながら楕円のボールを追いかけている。安定した企業や公務員ばかりではなく、薄給の立場の者も少なくない。そうやって人件費を最小限に抑えても、そもそも運営はぎりぎりだった。年間一口2000円からの会員募集がクラブの生命線なのである。
身を寄せ合って生き抜いたことでチームが結束
その釜石シーウェイブスが、5月末の7人制大会で、予想を覆す躍進を遂げた。29日に開催された東日本大震災復興支援の慈善大会「セブンズフェスティバル2011」で、トップリーグのトヨタ自動車とパナソニック(旧三洋電機)を破ったのだ。東京・秩父宮ラグビー場には、V7時代からの名物である大漁旗がゆったりと揺れた。俊足WTB(ウイング)の菅野朋幸は「みんなで身を寄せ合って生きることが、ちょうどチームビルディングにもなっていた」と話す。
激しい身体接触をともなうラグビーでは、所属集団への忠誠と仲間への敬意がしばしば大勝負の結果を分ける。だから、世界中のチームが、たとえばメンバーとスタッフ全員で険しい山に登ったり、急流を下ったりすることでチーム構築を図る。釜石シーウェイブスの場合は、家族を含めた約60人のクラブハウスでの避難生活が、お互いの結びつきをさらに強固とした。
「釜石のラグビー」を未来につなげて
釜石の被災は、この土地におけるラグビーの時間軸をあらためて思い起こさせた。新日鐵釜石は、釜石工業、宮古工業、一関工業などなど東北地方の高校を出た「たたき上げ」の並ぶ布陣で、大学出のスターのそろう都会のチームをやっつける。強く、たくましく、それでいて力に頼らず、根底には、ひたむきさがあった。釜石のラグビーは日本列島のどこにあっても肯定された。まだ東北新幹線のない時代、凱歌のあとに、上野発の列車で三陸へ帰り、ただちに職場に出勤する。すぐに作業着をまとい実直で大切な仕事に励んだ。その姿こそは、古典的な「ローカルヒーロー」の具現であった。
偉大なる過去、製鉄所の縮小と市民クラブ化、もがきながら理想を追った近年、新たに描くほかはない将来像。それぞれの立場でかかわり、これからもかかわる人間は、甚大な悲劇によって、あらためて「釜石ラグビー」の大きさを知ることとなった。時に運命の残酷にさらされながら、なお過去と現在と未来はつながっている。
昨年度(2010-11シーズン)、釜石シーウェイブスは、12チーム参加のトップイーストで7勝4敗の4位に終わった。潤沢な補強を続けるキヤノンなども同リーグに立ちはだかり、昇格は簡単ではない。11年6月、震災後に初めて釜石で行われた招待試合、トップリーグのヤマハ戦にも5対75と実力の差を見せつけられた。
トップイーストDv1は、この9月の開幕から10チームに再編される。あの7連覇以来、おそらく、これほど釜石のラグビーが注目されることはあるまい。
「ラグビーではあくまでも勝利を追求したい」(菅野)
ラグビーはラグビーだ。しかしラグビーがラグビー以上の存在となることもまれにはある。