狂言って何? 能との違いは?
狂言を一度も観たことがないという人も、「能・狂言」や、能と狂言の総称である「能楽」という言葉は聞いたことがあるのではないでしょうか。歴史を室町時代にさかのぼる能と狂言は、密接な関係にあります。しかし全く違うものという言い方もできます。基本的には、能は悲劇であり、表現も文語調の「候(そうろう)」文です。狂言は、喜劇であり、「ござる」という口語調です。そして何より登場人物の違いがあります。能では「源氏物語」の葵上や「平家物語」の源義経や平知盛など、歴史上の人物、位の高い人が登場し、正義や人生の悲哀、幽玄の美などを描きます。
いっぽう狂言の登場人物は、大名や主(あるじ)とは名ばかりで使用人は一人しかいない男、風采の上がらないダメな夫などです。使用人は登場するのが一人ならば「太郎冠者(かじゃ)」、二人ならば「次郎冠者」が加わります。個人名のようでありますが、そうではなく、すべての使用人がこう呼ばれます。
つまりは、大部分が名もなき普通の人々で、彼らは嘘をついたり、人を欺いたりします。そうした人間の負の部分、弱い部分をも描いているのが狂言です。これは僕の持論ですが、狂言では、能で描かれる美学とは別に、業(ごう)という側面があるからこそ、人間は素晴らしいということを大事にしないといけないと考えています。
現代にも通じる人物像
先程、狂言の登場人物はごく普通の人々と言いました。同時に、現代にも通じる人間像であると言えます。たとえば、「二人袴」という曲(作品)があります。狂言の場合、男性は弱気でダメな奴が多いのですが、この主人公の聟(むこ)もそうです。室町の頃は男性が女性の家に入る「婿入り」でしたので、婚家(嫁の家)に行くことになります。恥ずかしいので兄についていってもらい、ひと騒動起きるというストーリーです。この主人公は今でいう草食男子そのものです。そんな婿でも、舅(しゅうと)は温かく迎えてくれます。
また「濯(すす)ぎ川」という曲では、主人公の男が川で妻や姑の着物の洗濯をさせられ、川面に向かい一人で悪口を言い連ねます。彼こそ絵に描いたような恐妻家です。こうした恐妻家も狂言ではよく登場します。
そして太郎冠者は、たまには主人の窮地を救う賢い者もいますが、総じてちょっと抜けたところがある、いわゆる天然のボケキャラです。愛敬のある、愛されキャラとも言えます。他にも、偉そうにしている割には情けない「大名」、「すっぱ」と呼ばれる詐欺師、修行したはずなのにドジばかり踏む「山伏」など、ダメな男のオンパレードです。
これに対して、狂言に登場する女性は皆強いのです。それは「わわしい女」という言葉に代表されます。わわしいというのは、気が強い、うるさい、こわいという意味です。能楽の役者はすべて男性ですから、女性の役も男性が演じます。能では面(おもて)をつけますが、狂言ではごく一部をのぞき素顔で演じ、頭を美男鬘(びなんかずら)と呼ばれる白い布で覆っているのが特徴です。写真で見ると不自然に見えるかもしれませんが、これが生の舞台で見ると絶世の美女に……。そこまでは無理ですが、ちゃんと女性に見えてくるから不思議です。
また現代演劇のような舞台装置もほとんどなく、それを演じ手の技量と、お客様の想像力で補うわけです。
路上ライブと同じ感覚の奉納狂言
狂言に限らず、古典芸能を敬遠する理由として、能楽堂や歌舞伎座のような場所に敷居の高さを感じる人もいることでしょう。閉ざされた空間で演じられている、特別なものというイメージがあるのかもしれません。しかし、能楽はもともと神社などで奉納されることが主流でした。たまたまお参りに来た人が足を止め、観客になってくれるかどうか、本当の意味での技量が試される場でした。今だったら、路上でライブをやっているようなものです。足を止めてもらうにはどうすればいいか、パワーも必要ですし、間の取り方やせりふのスピードなど、あらゆる方法を考えて、もう必死です。昔の狂言役者の場合には、おひねり、つまりご祝儀があるかどうかで、自分の生活ぶりが変わってくるわけですから、さらに切実でした。
我が茂山家では、関西圏を中心に、今でも数多くの奉納狂言をさせていただいています。若手にとっては力量試しの場、まさに修業の場です。狂言が終わったら観客がほとんどいなかった、などという場合には、本当にへこみます。逆に、我々のことも、狂言のこともよく知らない方々が、笑い、拍手をし、楽しんでいる姿を見ることができたときには、本当にうれしい。これぞライブの醍醐味といった感じです。初めての方は、まず、こうした入り口から、狂言の世界に入ってみるのもいいでしょう。
狂言への入り口は多種多様
この頃は、インターネットで簡単に動画が見られるようになりました。狂言も、ライブ中継をしたり、動画を流したりもしています。また、落語など、他のジャンルの古典芸能とのコラボレーションもしています。作家の京極夏彦さん作の狂言「豆腐小憎」もそうしたコラボの一環で、狂言の間口が広がることにもつながっています。これは年代や地域によって違うようですが、国語の教科書で初めて狂言に出会ったという人もいます。最近、京都市では、国語の教科書で音読するだけではなく、実際に体を使って演じる授業をするために、先生方のワークショップも開催しています。
ところで、こうした子どものための狂言会や学校狂言をしていて気付くことがあります。大人が「古典は言葉の意味が理解できないから難しい」というのは、悪しき先入観だということです。もちろん子ども向けの作品を選んではいますが、小学1、2年生でも、おおいに反応し、笑ってくれます。
ここ数年、徐々に日本回帰しているような気もします。西洋文化を一通り経験し、改めて見直したら、やはり日本っていいなと感じる人が多くなっている、そういう時代が来ていると思います。冒頭の、変な擬態語、擬音語を面白いと感じた、ちょっと気になるイケメンの狂言師がいる、能楽堂をいっぺん見てみたい、など、とっかかりは何でもいいのです。とにかく一度狂言を観に来てください。きっと狂言の魅力が伝わるはずです。