2017年7月9日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会で、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」が、世界文化遺産に登録された。同年5月のイコモス(国際記念物遺跡会議)で除外勧告を受けた資産を含む8資産全てが登録されることになり、地元も喜びに沸いた。しかし、祭神の宗像三女神は、地元以外ではあまり馴染みがない。そこで宗教学の視点に基づき、改めてどのようか神かを解説してもらった。
宗像大社の沿革
宗像大社(むなかたたいしゃ)は福岡県宗像市にあり、宗像市田島の辺津宮(へつぐう)、海岸から11キロ離れた大島の中津宮(なかつぐう)、60キロ離れた玄界灘の真ん中にある沖ノ島の沖津宮(おきつぐう)の三社の総称である。平安中期に成立した法令集「延喜式(えんぎしき)」の中で、全国の神社と祭神の名を記した「神名式(じんみょうしき)」に記載のある式内社(しきないしゃ)になっていた古社である。
沖津宮の田心姫神(たごりひめのかみ)、中津宮の湍津姫神(たぎつひめのかみ)、辺津宮の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の宗像三女神を祀る(表記は宗像大社社伝による)。宗像三女神は、国の安寧を守護する海の神として信仰されている。また、「安芸の宮島」に代表される厳島神社の祭神でもあり、両社を含め全国に6000社を超えて祀られている。特に市杵島姫は、弁財天と習合し、福徳財宝、音楽や技芸の神としても信仰されている。
宗像大社の社殿は、天応元年(781)に三女神を初めて一所の神殿に祀ったとする説、また建長年間(1249~56)に現在地に移ったとする説がある。現在の本殿(辺津宮)は、天正4~6年(1576~78)の再建。正面の柱が6本で柱間が5間、手前の屋根が長く伸びた五間社流造(ごけんしゃながれづくり)である。
アマテラスとスサノオの誓約で生まれた三女神
宗像三女神は、『古事記』『日本書紀』の記紀神話に早くから現れる、由緒のある神々である。記紀神話に登場するのは大和や河内、出雲、伊勢の神々が主要であるが、宗像三女神だけが例外的に九州の土地神として出現している。それも記紀神話の主神である天照大御神(あまてらすおおみかみ)(「紀」では天照大神)と、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)(「紀」では素戔嗚尊)の対決する重要な場面である。まずは『古事記』(岩波文庫)から、二神が対決し、宗像三女神が誕生する場面を見てみよう。
スサノオが母の国である根の国に行くことになり、姉のアマテラスに別れを告げるために、高天原(たかまがはら)に昇った。そのとき、山川・大地が大いに震動し、アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たと思い、男装し武器を帯びて対峙した。アマテラスがどうして天に来たのだと問うと、スサノオは自分に謀反を起こすような悪しき心がないと答えるが、アマテラスは信用せず、清く明(あか)き心を証明するために、天安河(あめのやすかわ)で神意を伺うべく誓約(うけい)をすることになる。
まずアマテラスがスサノオの剣を取って、噛み砕き吹き出すと、三柱の女神が生まれる。原文は「……吹き棄(う)つる気吹(いぶき)のさ霧に成れる神の御名(みな)は、多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)。亦(また)の御名は奥津島比賣命(おきつしまひめのみこと)と謂(い)ふ。次に市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。亦の御名は狭依毘賣命(さよりびめのみこと)と謂ふ。次に多岐都比賣命(たきつひめのみこと)。」となっている。
一方『日本書紀』(岩波文庫)では、「……吹き棄(う)つる気噴(いふき)の狭霧(さぎり)に生まるる神を、号(なづ)けて田心姫(たこりひめ)と曰(まう)す。次に湍津姫(たぎつひめ)。次に市杵嶋姫(いつきしまひめ)。凡(すべ)て三(みはしら)の女(ひめかみ)ます。」と書かれている。これはスサノオの持ち物から生まれたので、スサノオの子で、その心を表す。
他方、スサノオはアマテラスの髪や手に巻いてある勾玉を貰い受けて、噛み砕いて吹き出すと、天之忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、天之菩卑能命(あめのほひのみこと)、天津日子根命(あまつひこねのみこと)、活津日子根命(いくつひこねのみこと)、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)という五柱の男神が現れた。こちらはアマテラスの持ち物から生まれたので、アマテラスの子ということになる。こうして、スサノオには悪しき心がなく、清き心であることが証明され、三女神が祀られることになる。
『古事記』の続きを読むと、「故(かれ)、その先に生(あ)れし神、多紀理毘賣命は、胸形(むなかた)の奥津宮(おきつみや)に坐(ま)す。次に市寸島比賣命は、胸形の中津宮に坐す。次に田寸津比賣命(多岐都比賣命の異表記)は、胸形の辺津宮に坐す。この三柱の神は、胸形君等(むなかたのきみら)のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり。」とあり、三女神がそれぞれ玄界灘を南北につなぐ三宮に祀られ、筑紫(つくし)の豪族、宗像氏がその祭祀を執行したことが記されている。三女神の表記や配列は、『古事記』、『日本書紀』本文、同・異伝によってさまざまに入れ替わるが、現在ではタゴリヒメが沖津宮、タギツヒメが中津宮、イチキシマヒメが辺津宮となっている。
他方、スサノオは女神を出現させ、「我が心清く明し」を証明したので、我が勝利だと宣言する。この誓約の後、勝利に慢心したスサノオは高天原で暴虐の限りをつくしたことによって、アマテラスは天の岩戸に籠り、高天原が暗闇になり、スサノオは出雲に降(くだ)されるという説話が続いていく。
『日本書記』の異説
ところが『日本書紀』「神代上」には、『古事記』とは異なる記述が見られる。誓約の場面について、スサノオは私が女の子を生んだなら悪しき心があり、男の子を生んだなら清き心だとする誓約を提案しているのだ。つまり生まれた神の性別と、清心・悪心との関係が逆になっている。アマテラスはスサノオの剣から三女神を生み、スサノオはアマテラスの玉から五男神を生む。アマテラスは、私の玉から五男神が生まれたので私の子だ。スサノオの剣から三女神が生まれたのでお前の子だと言って、スサノオに三女神を授けた。そして、「筑紫の胸肩君等(むなかたのきみら)が祭(いつきまつ)る神、是(これ)なり。