」と、大和朝廷は三女神を宗像氏などの祀る土地神として位置づけ、国家祭祀を受けたことを記している。
『日本書紀』は「一書(あるふみ)」と呼ばれる多くの異伝を併記しているのが大きな特徴だが、第三の一書では、三女神ははじめ宇佐島(大分県の宇佐神宮付近か?)に降らせたが、現在では「海の北の道の中に在(ま)す。号(なづ)けて、道主貴(ちぬしのむち)と曰(まう)す。此(これ)筑紫の水沼君等(みぬまのきみら)が祭(いつきまつ)る神、是(これ)なり。」と記しており、宗像氏でなく水沼氏らが祭祀をしているとする。
三女神の鎮座する三つの宮を直線で結ぶと、その延長は朝鮮半島の釜山付近に達する。道主貴は、現在では一般に「みちぬしのむち」と読むが、これは道中の神という意であり、朝鮮へ向かう海路にある島に鎮座した神のことであり、その海路を守護する国家神として祭祀されたのである。貴(むち)とは、最も高貴な神に贈られる尊称で、ほかには天照大神の別名である大日靈貴(おおひるめのむち)と、大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名である大己貴(おおなむち)しかいない。
宗像三女神の様々な役割
『日本書紀』応神三七年の条には、応神天皇が阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)という人物を派遣し、中国の呉(南朝の宋[420~479])の国で機織り・裁縫をする女性を求めたことが書かれている。4年後、ふたりは呉の王から与えられた4人の女性を連れて、筑紫に到着するが、宗像大神が織女を要望する託宣をしたので、一番年上の最も優れた織女を捧げたという。
筑紫・宗像の地は、朝鮮・中国との外交や交易での海上ルートの始発地になっていた。この記述から、宗像大神は「道主貴」として航海の安全を守るばかりでなく、航海すべき期日を告げるなどの神託も授ける神であり、神に供える衣服の製作に熟練した女性を必要とし、また託宣では神の憑依する巫女として、祭祀に奉仕したと推測する研究者もいる。
また、雄略九年の条には、当時出兵していたとされる新羅との戦いにおいて、雄略天皇が航海安全・戦勝の祈願をするために、大和から宗像へ二人の使者を派遣したこと、そして苦戦のため、天皇自ら遠征軍を率いて出征しようとしたが、宗像の神が託宣して、それをやめさせたことが記されている。
雄略天皇は、「宋書」など中国の歴史書に記された「倭の五王」のうちの武とされるが、この記述から五世紀後半の新羅との戦争において、宗像三女神は戦勝祈願の神とされたばかりでなく、天皇の出征を止めて外敵から王権を防衛する託宣を授ける神ともなり、対外的な軍事・外交・交易に関わる国家的祭祀において、重要な位置を占めていたことがわかる。
8万点の国宝が眠っていた「海の正倉院」
こうした宗像三女神の役割を、端的に示すのが沖津宮であり、島そのものが御神体とされる沖ノ島である。ここでは朝鮮半島への渡海の際に祭祀が行われ、多様な奉献物の散在する祭祀遺跡を残している。それは、4世紀末から9世紀、倭の五王から遣唐使の時代にまで及ぶ、古代の神祇信仰の痕跡を豊富に残した祭祀遺跡として貴重かつ著名であり、「海の正倉院」と称されている。この祭祀遺跡は、神の宿る磐座(いわくら)・巨岩群からなり、島の南側斜面、標高80メートルほどに23カ所が見つかっており、1954年から71年にかけて発掘・調査が行われた。現在、発掘された8万点に及ぶ祭祀遺物がすべて国宝となり、宗像大社神宝館に収蔵されている。
江戸時代、黒田藩では沖ノ島の島守を派遣していた。藩士の青柳種信は藩命で沖ノ島の警備役を勤めた際の見聞を『瀛津島(おきつしま)防人日記』に残している。日記には、島に入るには、海で裸になり冷水を浴びて心身を浄める水垢離(みずごり)などの厳重な潔斎をしなければならず、不言様(おいわずさま)といい、島で見たり聞いたりしたことは一切口外しないことや、島からは草木をはじめ一切の持ち出しが禁じられていたことなどが記されている。こうした禁忌によって、祭祀遺跡はかなりよく保存されていたのである。
祭祀遺跡の調査から、沖ノ島祭祀は第1期とされる4世紀後半から5世紀前半の岩上祭祀、第2期とされる5世紀後半から6~7世紀の岩陰祭祀、第3期とされる7世紀後半から8世紀(飛鳥・奈良期)の半岩陰・半露天祭祀、第4期とされる8~9世紀(平安期)の露天祭祀の4期にわたって変遷していった、というのがこれまでの定説だった。祭祀の場が、山中の巨岩の上から次第に平地へと移っていったという考え方である。しかし近年、岩上・岩陰の遺跡は祭場そのものではなく、平坦部で行われた祭祀の終了後に、奉献物を納めた場であったとする説も唱えられている。
巨岩の上や周辺からは、「三角縁神獣鏡」などの多数の銅鏡や、鉄の地金で鉄器の素材とも権威を表す宝物だったともいわれる鉄せん(「せん」は金偏に延)、鉄製の刀剣・馬具・農具・工具、ヒスイ輝石(ジェダイト、中国でいう玉)でできた硬玉製勾玉、石英の変種である碧玉製の腕輪、加工しやすい滑石製の人形(ひとがた)・馬形、金銅製の龍頭・五弦琴、日本最古の彩釉陶器(さいゆうとうき)である奈良三彩などがおびただしく出土している。これらの出土遺物の年代は、古墳時代から平安時代にまで及び、朝鮮半島との交易や軍事などの交流と、関わった祭祀の変遷を示している。
沖ノ島は現在でも聖地として存続している。女人禁制を厳守し、男性でも神職のみが上陸でき、古代以来の禁忌が厳守されている。世界文化遺産登録を機に、この信仰のありようを、どのように未来に継承していくのかが、改めて問われている。