海岸線はほぼ全て護岸工事によってコンクリートで覆われ、あちこちに埋め立て地があるけれど、過疎化が進んだ今ではそこに住む人さえいない、という光景が連なっている。それは、高度経済成長の時代に「近代の論理」がものすごいスピードで席巻したことの結果なのでしょう。それも、おそらく牛窓だけではなく日本全国で同じ事が起きていた。だからこそ全国で公害などの問題も発生したわけです。
最近、高度経済成長ってなんだか憧れの対象のように語られることがありますが、実際にはそんないいことばかりではなくて、本来ならそうした「負の部分」への反省が絶対に必要だったはずです。それなのに、今の政治にはそのまなざしが完全に抜け落ちていて。アベノミクスも、まさに高度経済成長への憧憬の下で進められてきたものだと思いますが、とにかく公的資金を注入して株価をつり上げようという、いわば筋肉増強剤のような政策ですよね。見せ掛けの筋肉は付くけれど、やり過ぎればどうしたって体はぼろぼろになっていく。この方向性を変えないでいけば、更にいろんな破壊が進んでしまうのではないかという危機感を抱きます。
中島 今、僕たちが一番疑わないといけないのは「スピード感」という言葉だと思っています。僕はメールの返信もなかなかしないほうなんですが(笑)、「即レス文化」ともいうべきものが幅を利かせていますよね。でも、それって昔なら「拙速」とも言われていたはずのことではないでしょうか。
僕はずっとガンディーについての研究をしているのですが、彼の言葉ですごく好きなのが「よいものはカタツムリのように進む」というものです。大切なこと、重要なことというのは、そんなにスピーディーに動くものではなく、ゆっくりゆっくりと進行していくのだというんですね。そこには根本的に、「近代」のスピードに対する拒絶という感覚があったと思うのです。
『港町』では、町に流れている時間はとてもゆっくりですが、そこに全然違う「近代」のスピードが入ってきていることも垣間見える。例えば、想田さんを案内してくれたおばあさんは、ある建物の前で「ここはもともと小学校だったけど、それが民宿になって、今は病院で……」と説明してくれます。すごいスピードで変わっているわけですね。
今、想田さんがアベノミクスの話に触れられましたが、実はこの、牛窓のような小さな港町にも「近代」のスピードが入り込んできているという事実が、安倍政権のようなむちゃくちゃな政権が生まれ、継続しているという事実ともつながっているのではないか。僕はそう考えています。
想田 全く同感です。先ほどの「死者のまなざし」のお話もそうですが、この社会には、ずっと昔から綿々と続いてきた大切なものがあったはずなのに、それがいつからか断絶してしまった。もしかしたらその断絶が始まったのは、せいぜい100年、200年前という最近なのかもしれませんが、そこからさまざまなことがおかしくなり始めたと感じています。安倍政権やトランプ政権の誕生も、その流れと無関係とは思えません。
「庶民の英知。そして日常を引き受けるということ。(後編)」へ続く
牛窓
岡山県瀬戸内市にある漁村で、想田監督の義母の出身地でもある。『港町』及び前作『牡蠣工場』を撮影した場所。