ろう者が「口話を拒否する」ということ
──「ろう者が手話を使う」ことは当たり前のようにも思われがちだが、実は日本でもフランスでも、手話は「言語以前の身振り手振りにすぎない」とされ、ろう教育において手話を使うことは長く禁じられていた。代わりに「ろう者が身につけるべき」とされていたのは、補聴器や人工内耳を使ったり、唇の動きを読むことで相手の話を理解し、発声訓練を繰り返して自分の声で話す「口話」である。1880年にイタリアのミラノで行われた「第2回国際ろう教育者会議」では、「手話法は口話法より劣っている」と宣言。これによって日仏のみならず多くの国で、ろう者は「手話」という選択肢を奪われ、口話教育を受けるのが当然とされてきた。
日本では1980年代から90年代にかけて、ようやく「手話をろう教育に取り入れるべきではないか」との声が高まりはじめた。 95年には、ろう者の木村晴美(手話教育者、研究者。現NHK「手話ニュース845」キャスター)らが「手話は日本語とは異なる少数言語である」という認識に立った「ろう文化宣言」を発表。ろう者としてのアイデンティティを確認するため、あえて口話を使うことを拒否するろう者も次々に現れた。
2010年にカナダのバンクーバーで開かれた第21回国際ろう教育者会議では、「手話を否定したミラノ会議のすべての決議を却下する」旨の決議が採択されている。
斉藤 この映画は、ろう者にとっての口話と手話が重要なテーマになっています。ヴァンサンもまた、幼少期は口話教育を受けて育ち、大人になってから手話を学んだのですね。
レティシア そうです。彼は1997年にパリに移り住んだのですが、そこで仕事をはじめ、演劇と出会い、ゲイコミュニティとも出会うなど、一人の人間として初めて成熟したようなところがありました。そしてそれと同時期に、ほとんど口話を使わずに手話で話すようになったのです。母親と話す時や、あと職場では聴者に囲まれていたので、そこでは少し口話を使っていたようですが。
斉藤 ヴァンサンが口話を使わなくなった時期は非常に興味深いですね。実は、日本のろう者たちにも、同じ時期、90年代後半頃に声を出すのをやめた人たちがたくさんいるのです。
レティシア 口話教育を受けた人たちが手話に移行するというのは大きな出来事ですよね。とてもラディカルで、自らのアイデンティティを再発見する行為だと思います。
斉藤 僕の知人にも、補聴器を外して口話をやめたことで、家族とケンカになったり友人関係が壊れたりという経験をした人がいます。フランスでもおそらく同じだったのではないですか。
レティシア そうですね。それは、個人の選択でありながら、周りとの絆を一度断ち切ってしまうほどの力がある行為なのだと思います。
斉藤 映画の中からも、「ろう者に口話を押しつける社会」に対するレティシアさんの怒りを強く感じました。それも、表面的なものではなく深い理解の上に立った怒りだと思います。
レティシア ヴァンサンが亡くなった10年前には、激しい怒りを感じていました。それは少しずつ静かなものに変わってきましたが、ずっと私の中にあり続けています。
斉藤 その怒りの中心にあるものは何なのでしょうか。
レティシア 私が何よりも不公平で、不公正だと感じることは、誰かにその人らしくないものを押しつけ、型にはめるということなのです。その人らしく生きる、存在するという自由を誰かから奪って無理矢理何かをさせるということは、あってはならないことだと思っています。
ろう社会という「見えない世界」
──手話教育の再評価を経て、近年、各国で広がりつつあるのが、耳から情報を得ることのできないろう者に、第一言語として手話を、そして第二言語として読み書きを修得させるという「バイリンガルろう教育」である。発声や読唇などの「口話」訓練は、各人の希望や状況に応じて、後から受けるほうがろう者にとって自然な流れである、と考えるものだ。
とはいえ、現状でも日本のろう学校の多くは手話を教育の中心には置いておらず、こうした「バイリンガルろう教育」を行っているのは、東京都品川区にある明晴学園のみ。自宅の近くにろう学校がないために、まったく手話教育を受ける機会を得られないろうの子どもも少なくない。
斉藤 フランスの、ろう者へのバイリンガル教育の現状についても少し教えていただけますか。映画の中にも、フランス南部のトゥールーズにあるバイリンガル校が出てきましたが……。
レティシア バイリンガル教育を行っている学校はフランスに三つあり、映画に出てきたトゥールーズの学校は、25年前に作られたいわばモデル校のような存在です。あと、リヨンとポワチエにも一つずつ学校があります。
手話詩
手話で演じられる詩歌表現のこと