トゥールーズとリヨンの学校は、聴者の学校の中にもう一つろう者の学校があるという形で、ろうの子どもたちはまとまって学んでいます。一方、ポワチエの学校は、同じクラスの中に聴者とろうの子どもがいて、聴者とろう者の先生が並行して授業をするという形式です。
ポワチエの形式では、聴者の子どもたちは耳で聴者の先生の講義を聴きながら、ろう者の先生の手話を見ることができるし、クラスの中にろう者の友達が常にいる。その意味で、これはこれで素晴らしいやり方だと言えるのですが、ろうの子どもたちにとってはトゥールーズモデルのほうが望ましいと思います。ろう者でまとまって勉強することで、アイデンティティの形成につながるのではないでしょうか。
斉藤 それ以外に新しい学校はできていないのですか。
レティシア ろうの子どもを持つ保護者の働きかけで、試験的にクラスを設立する学校はあるのですが、できてはすぐに消えてしまうという状況です。
また、懸念されているのは、2005年に制定された、インテグレーション(統合、融合)教育を推奨する法律の影響です。これは、聴者の学校にろうの子どもを通わせて一緒に教育するというものなのですが、そうするとクラスの中でろうの子どもはたった1人ということになる。ろうの子どもも両親も他のろう者と一緒に行動することが難しくなってしまいます。ろうだけではなくハンディキャップを持った子ども全般を対象にした法律なので、自閉症などの子どもたちも、インテグレーション教育で一般の学校に編入されるということが起こっているんです。
こうした動きは、ろう者や障害のある子どもたちを、ゲットーのように一つの場所に押し込めてはならない、みんな一緒に教育を受けるのでなくてはならないという「善意」から生まれたのだと 思います。しかし、「みんな一緒に」はろうの子どもたちにとってとてもつらい状況です。ろうの子どもにとっては、同じろう者の間で学んでコミュニティを形成すること、年上の子から年下の子へ、手話によって知識が継承されていくことが重要だからです。
斉藤 日本でも同じ状況です。日本では、「インクルーシブ教育」という言葉が使われますが、やはりろうの子どもたちを一般校に通わせ、ろう学校をなくすという方向に進んできていて、非常に残念です。
レティシア フランスの国民教育省の地方機関である「アカデミー」の監察官と、ろうの子どもとその親との面談に立ち会ったことが何度かあります。見ていて非常につらいものでした。手話で生き生きと話し、遊んでいる子どもたちの様子を1時間以上も見た後でも、監察官は「口話教育こそ素晴らしい」と主張するのです。彼らは、自分自身で見たことからは目を背け、耳を塞いで、政府の決定した政策の後ろに隠れてしまっているように見えました。
斉藤 日本でも同じようなことがあります。そして、そうした状況を見ていると、ろう社会というのは「見えない世界」なのかもしれないと感じます。私たちはろう者を見、手話での会話を見て、ろう者とはこういう人たちだ、ろう文化とはこういうものだと理解したつもりでいるけれど、本当の意味で理解できているわけではない。ろう社会の本当の姿というのは、見いだすのが非常に難しい、ある意味で「見えない世界」なんだろうな、と思うのです。
レティシア それこそが、私がこの映画で伝えたかったことでもあります。ろう社会という、聴者にとっての「見えない世界」を、少しでも「見える世界」にしたかったのです。
斉藤 その意味では、見る側も「試される」映画かもしれません。というのは、これは必ずしも「分かりやすい」映画ではないからです。それはおそらく、聴者にとって の分かりやすさだけを優先してしまうと、本当の「ろうの世界」は描けなくなってしまうということだと思います。
レティシア そうですね。複雑なものを、表面的に単純化して見せるということはしたくなかった。複雑なものは複雑なままに見せて、見る人に考えてもらいたかったのです。
斉藤 でも、「分かろう」とする人には必ず伝わるのではないでしょうか。
『ヴァンサンへの手紙』は10/16(土)よりアップリンク渋谷ほか全国順次公開。
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手話詩
手話で演じられる詩歌表現のこと