18年3月には、ユタの砂漠のど真ん中で2週間、外部との接触をほぼ断って日本人6人、インドネシア人1人のチームが暮らすというミッションに挑戦しました。食料も水も、最小限しかない。「火星基地」の外は「火星の地表」という設定なので、「宇宙服」に着替えてヘルメットと酸素ボンベもつけなければなりません。
村上 メンバーは、デザイナーやエンジニアなど、宇宙とは直接関係のない人ばかりです。宇宙飛行士としての訓練を受けていない人が宇宙に行くことも、近い未来には頻繁に起こりえます。そういう人たちが、集団で、また個人で、プロフェッショナルな職務を遂行するために、何が障壁となって、何が紐帯となるだろう、という実験にもなりました。ミスや人間関係の緊張もありましたが、最終的には2週間、中断することなく終えることができました。
こういった実験を重ねたことで、いま、極地生活に大切なものが次第に見えてきたところです。たとえば、単調な生活でオン・オフを切り替えるために、「着替え」が意外と有効なこと。メンタルな部分に、服や壁紙、小物の「色」がどれほど作用するか。「食事」を「餌」ではなくて、コミュニケーションの手段にするにはどうしたらいいか。
今後はさらにエビデンスを積み上げていきたいと考えています。
「北極圏を目指す冒険ウォーク2019」
荻田 私は19年3月からまた北極に行く予定を立てています。今までは基本的に単独行が多かったのですが、大学生や社会人、フリーターなど、10~20代の若者たちを連れて、北極圏約600キロを1カ月かけて歩くという旅です。
カナダ領バフィン島を歩くのですが、スタートは人口1500人ぐらいのパングニタングという村。中間地点にキキクタルジュアクという人口500人の村があって、ゴールはイヌイットの人たち1000人弱が住んでいるクライドリバーという村です。
なぜこんな旅をしようと思ったか? 私が最初に北極に行ったのは2000年、22歳のときでした。大場満郎さんという冒険家が、若者たちを連れてカナダの北極圏を歩こうという企画を立てたと知って、これに参加したことが今の自分の原点なんです。
私は1999年に大学をやめてしまって、やることもなく、エネルギーと根拠のない自信を余らせていました。そんなとき、たまたまテレビのトーク番組で大場さんを見たんです。大場さんもやはり北極や南極をソリを引いて歩く冒険家なので、活動について詳しく話をしていました。「凍傷で足の指を10本とも失った」なんてことも。
それまで大場さんの存在も知らなかったし、将来は冒険家になりたいなんて思ったこともなかったのに、この人すごいな、と、だんだん目が離せなくなっちゃった。
そうしたら、番組の最後に、「来年は素人の若者たちを連れて、一緒に北極を何百キロもソリ引いて歩こうと思ってるんですよ」と言ったんです。その後、大場さんの講演にも行って、ますます会ってみたくなった。それで大場さんに手紙を書いて、どこに出せばいいかわからなかったから講演を主催した新聞社に出したら、本人に渡してくれて、直筆、それも毛筆で返事がきた。
村上 手紙にはどんなことが?
荻田 毎月みんなでミーティングを開いてるので、よかったら話だけでも聞きに来たらどうですか、と書いてあった。それなら、と参加したのが始まり。初海外旅行で、初北極で、アウトドア経験はゼロ。ソリ引いてスキーで歩くのも、雪の中にテント張って寝るのも初めて。でも、北極圏700キロを35日間かけて歩き通した。
この翌年から、次は独りで行こうと思うようになって、23歳から北極の村に通い始めて、今に至る。自分にもそういう契機があったので、何かしたいと思っている若い人に、きっかけをあげたいとずっと思ってきたんです。
村上 参加者は何人くらい集まっているんですか?
荻田 12人です。みんな、私が南極から帰ってきた後、ラジオやテレビ、インタビューでこの構想を話したのを聞いて、問い合わせてきた人たちです。講演に参加した芸術系の女子大学生もいますし、たまたまかかっていたラジオで知ったという社会人1年生もいます。大場さんと歩いたときもそうでしたが、不思議と、著名な大学の探検部ですとか、山岳部ですっていう人は一人もいないですね。
村上 キーパーソンになりそうな人はいますか?
荻田 毎月1回会っているだけなので、まだわかりません。現地に行く前、2月中旬に10日間ぐらい北海道に行って、雪の中でテント張って寝泊まりしたり、スキーはいて歩いたりというトレーニングをやる予定です。そういう中で、メンバーそれぞれの性格も見えてくるのではないでしょうか。
「関心」と「無関心」
村上 私はクルーとの初顔合わせの場でだいたい、この人は後々こんなことを言いそうだ、とか、こんな不満を溜め込みそうだ、こんな事態を引き起こしそうだ、というのがわかるんですよ。そして実際、わりと予想通りになる。
なぜかというと、これまでいろいろなクルーと過ごしてきた経験から、その人が何に「関心」があって、何に「無関心」なのかが読めるようになってきたからなんです。
宇宙に行きたい人たちも北極に行きたい人たちも、強い思いは絶対にあるでしょうが、この強い「関心」だけを見ていても、人となりは大してわからない。ただし、関心が強ければ強いほど、その脇には大きな「無関心」がある。僕はこの無関心こそ、その人となりを示すのではないかと考えています。
「関心」がある分野では、事故やミスは起きにくい。常にこれに気をつけなくちゃ、と思っていたら、そこで事故が起きることは少ないものです。むしろ「無関心」がミスを起こします。危険がなさそうなところで油断して遭難する。あるいはずっと注意していたのに、ふと慣れてきてしまって忘れたときに事故が起きる。
さまざまな国のクルーとチームを組んでいた時は、彼らの関心と無関心がわかりやすかったので、予測もしやすかった。だけど日本人の若者に接してみると、難しいなと思うんです。彼らは内に秘めたものを最初に出さないので。ユタ州での実験クルー7人の中には、19歳の日本の男の子もいたんですけど、やっぱり読み取りにくかった。
3月の北極行では、そういう日本の若い人に囲まれて、深刻にならない程度に荻田さんが右往左往する事態になれば、荻田さんにとって刺激的な旅になるのではないかと期待しています。
南極観測隊
正式名称は「南極地域観測隊」。南極圏の東オングル島に位置する昭和基地(国立極地研究所所管)を主な拠点として、天文学、地質学、生物学上の観測、調査などを行う。1年以上を南極で過ごす冬隊(越冬隊)と、夏季のみを過ごして帰還する夏隊がある。1956年に予備隊(第1次隊)が派遣された。2019年2月時点では第60次隊が南極で活動中。
昭和基地
南極大陸から4キロほど離れた東オングル島に建てられた、国立極地研究所所管の観測基地。1957年、第1次南極観測隊によって建設された。大小50以上の建物で構成されている。
アムンゼン・スコット基地
1957年に南極点付近に建設されたアメリカの観測施設。2007年からは、建物全体をジャッキで持ち上げる高床式構造となっている。名称は、1900年代初頭に南極点への初到達に挑戦した探検家、ロアルド・アムンゼン(1872~1928、ノルウェー)と、ロバート・F・スコット(1868~1912、イギリス)に由来する。
マナスル
ヒマラヤ山脈に属する、ネパールの山岳。標高8163メートル(世界8位)。日本は1952年から調査隊を派遣し、1956年5月、第3次日本マナスル登山隊(槇有恒隊長)の今西寿雄らが初登頂に成功。日本人として初の 8000メートル峰登頂となった。
『南極物語』
1983年に公開された日本映画。蔵原惟繕監督、高倉健主演。第1次南極観測隊の体験談をもとに、昭和基地に取り残された樺太犬「タロ」と「ジロ」の姿を描き、大ヒットした。
大場満郎
1953年生まれ。83年、南米アマゾン川の源流から6000キロをいかだで下る。86年、北磁極を単独踏破。94年から北極海単独徒歩横断に挑戦し、97年、4度目の挑戦で、世界初の北極海単独徒歩横断に成功。99年には南極大陸単独徒歩横断に挑戦し、成功。世界で初めて南北両極の単独徒歩横断に成功した。2000年、植村直己冒険賞受賞。著書に『南極大陸単独横断行』(2001年、講談社)など。
南極観測船「しらせ」
1983年から2008年にかけ、第25~49次隊を南極に運んだ南極観測船。南極観測船としては「宗谷」(1956~62年)、「ふじ」(65~83年)に続く三代目。2009年からは新しい「しらせ」が運航している。