本稿は、一言でいえばキュレーションとは何かについて考える試みである。今日、キュレーションという言葉は様々な観点から注目されているが、ここでは二つに絞って考えてみよう。
キュレーションとは「情報の収集と分類」
まず一つが、展覧会企画としてのキュレーションである。国立博物館などを会場とした大型展(このような展覧会を、業界用語でブロックバスターという)から、ギャラリーの一室を会場とした小規模な個展に至るまで、世の中には様々なタイプの展覧会がある。そして、規模の大小を問わず、一つの展覧会が発案されてから実現に至るまでには、そのプロセスを通じて様々な業務が発生する。この場合のキュレーションは、展覧会企画にかかわる様々な業務を緩やかにまとめる総称といえる。
そしてもう一つが、IT用語としてのキュレーションである。検索エンジンに「キュレーション」という言葉を入力すると、「インターネット上の情報を集めること」「集めた情報を分類、整理して新しい価値を与えること」といった説明がヒットする。またその延長線上で、集めた情報を特定のルールに従って分類・公開しているサイトをキュレーションメディアと称することもある。この場合のキュレーションは、SNSの普及によってネットに膨大な情報が溢れかえり、情報の真贋の見極めなどメディアリテラシーの重要性が強調されるなかで、いかなる基準によって情報を取捨選択すべきなのかという関心の高まりに対応したコンセプトといえる。
展覧会企画とネット検索。一見したところ、この両者は互いに何の関係もなく併存している。実際のところ、両者の関係に注目した議論もごく少数しか存在しない。しかしちょっと考えてみると、両者には情報の収集・分類という紛れもない共通点があることがわかる。展覧会とは様々なモノ(後に触れるが、モノは情報の集合体である)を集めてみせることだし、ネット検索は「インターネット上の情報を集めること」である。端的に言えば、二つのキュレーションの違いは、対象とする情報の違いでしかない。そしていうまでもなく、情報とはあらゆる知的生産の基礎として位置付けられる。本稿では両者の共通性に注目し、キュレーションという言葉の意味の拡張を試みてみたい。
われわれは高度情報化社会の中に暮らしていて、様々なメディアを通じて、日々大量の情報を摂取しては消費している。だがそれらの情報は一体どこからもたらされるものなのだろうか。情報を消費することが容易なのとは対照的に、情報を生産することは難しい(その落差は、例えば小説を読むことと書くこと、映画を見ることと撮ることを対比すればすぐにわかる)。キュレーションの意義はそこにこそある。本稿がキュレーションに注目するのは、それが情報を生産する技術、すなわち知的生産技術として大いに有効であると考えるからだ。
起源は「人の面倒を見る」ことだった
キュレーションとは何かについて考えるにあたって、まず語源を辿ることから始めてみよう。キュレーションの語源とされる言葉はラテン語のcurare。これは、未成年者や心身障碍者の面倒を見るという意味の言葉であったようだ。それが現在のような展覧会企画などを意味する言葉へと徐々に変質していったのは、大航海時代以降の博物館の歴史とも大いに関係している。
よく知られているように、ヨーロッパの著名な美術館や博物館の多くは、王侯貴族の私的なコレクションをそのルーツとしている。それらのコレクションには、当然ながら収集した王侯貴族の趣味が強く反映されていた。多くの資金や労力を費やして収集されたコレクションをどのように分類し、維持・管理するべきか――curareがその意味で用いられたのは、貴重なコレクションが人間の面倒を見ることにたとえられたからでもあったに違いない。
これらの王侯貴族の私的なコレクションの多くは、1759年の大英博物館開館や1793年のルーヴル美術館開館などを機に国家の所有へと移行して広く一般公開されるようになり、それと並行して収集した当事者とは別に、専門の管理者が管理責任を負うようになる。当時英語でkeeperと呼ばれていたこの責任者が、現在のキュレーターの原型である。その後、世界各地に多くの美術館や博物館が開館し、様々なタイプの展覧会が開催されるようになった結果、展覧会企画者としてのキュレーターの在り方も拡張されて現在に至っているわけだ。
現代アートで多用されるキュレーション
ところで、様々なタイプの展覧会と書いたが、現代の日本では「キュレーション/キュレーター」や「curated by__」という表記が用いられる展覧会は、どういうわけだかほぼ現代アートの展覧会に限られている。日本語版ウィキペディアの「キュレーター」の項目にはわざわざ現代アートに範囲を限定した説明が載っているし、美術館に所属しないインディペンデント・キュレーターの活躍の場もほぼ現代アートに限られるといっていい。キュレーションという言葉は展覧会企画全般を指す言葉のはずなのだが、これはいったいどういうことなのだろうか。
その答えは、現代アートとそれ以外のアートを対比することで鮮明になるだろう。印象派展などが典型だが、近代以前の作品の展覧会は言わば一種の定番商品である。そこで求められるのは安定した人気のあるコンテンツであり、企画者は有名作家の代表作を数多く揃えるなどして、可能な限りその要望に見合ったパッケージを仕立てて提供することが求められる。従来とは異なる新解釈が打ち出されることもあるが、なにぶん扱っている対象が既に長い時間を経て評価の定まっているものばかりのため、たった一度の展覧会で作家作品の評価が大きく変化するようなことはまず起こらない。
それに対して、現代アートとはすなわち現在進行形のアートの動向の総称である。多くの作家はまだ存命中で、今後過去とは全く異質な作品を発表するかもしれないし、キャリアの乏しい新人の展覧会が開催されることも少なくない。当然、その評価も不安定で、定まるまでには長い時間の経過を待たねばならない。その意味では、逐一例を挙げるまでもなく、現代アートの展覧会は、他の展覧会と比べて、美術史に新たな1ページを書き加えること、すなわち従来とは異なる新しい価値を提示するという実験的な側面が格段に強いことがわかる。キュレーションという歴史の浅いカタカナ翻訳語は、この側面と強く結びつくことによって自らその意味を狭めていったように思われる。
学芸員とキュレーターの違い
ここで、展覧会にかかわる業務を簡単に整理しておこう。一つの展覧会をまとめる上で発生する業務といえば、企画立案、人選、出品交渉、予算調達、スポンサーとの交渉、助成金の申請、会場計画、カタログ執筆、プレス対応、各種広報、設営作業、保険対応といったところが挙げられる。もちろん、対象とするコンテンツや規模・予算の大小によって業務の内容や分業の仕方は千差万別であるが、いずれの業務も「モノとしての情報」に深くかかわっていることに違いはない。
ところで、日本には多くの公立博物館・美術館があり、そこで作品の保守管理や展覧会企画を職業とする多くの学芸員が働いている。学芸員は博物館法が厳密に規定する国家資格が必須の職業であり、学芸員として公立の博物館・美術館に勤務することを志望する者は、まず大学での学修を通じて資格を取得しなくてはならない。だが、この連載で扱うキュレーションがそうした資格とはまったく別個のものであることは断っておきたい。
とはいえ、学芸員とキュレーターを混同するのも致し方ない一面がある。英和辞典でcuratorという単語を引くと「学芸員」という訳語が載っていることがあるし、私の手元にある各館の学芸員の名刺にも、裏面には決まってcuratorと記載されている。