だが学芸員とキュレーターは必ずしも厳密に対応しているわけではない。欧米ではcuratorというと館長かそれに準ずる職位を示す場合が多いようだし、所属する博物館・美術館の業務全般を担当するゼネラリストとしての学芸員と展覧会企画に特化したスペシャリストとしてのキュレーターを対比する意見は以前から少なくなかった。学芸員をキュレーターと訳すのは他に適切な訳語が存在しないという消極的な事情による部分が大きい。そもそも、スペシャリストとしての展覧会企画者にかかわる法的規定は国ごとに異なっているし、現在では正規雇用の身分で博物館や美術館に在職していることがキュレーターとしての絶対条件というわけでもなくなっている。学芸員資格を有しない者が小規模なギャラリーで企画したささやかな展覧会はもとより、もはや展覧会とすらいえない見本市やショールームでの商品展示や書棚の配架や陳列でさえも、それが「モノとしての情報」の分類・整理である以上は、れっきとしたキュレーション足りうるはずだ。少なくとも私はそう考えている。
「モノとしての情報」とは……
さて、先ほど「モノは情報の集合体だ」と書いたが、これがどういうことなのかごく簡単に説明しておこう。まずアート作品を例に取ってみたい。会場に置かれた美術作品の傍らには、キャプションと呼ばれる小さなプレートが張られていて、タイトル、作者名(及び生没年や出生地・死没地)、制作年代、ジャンル、素材などの情報が記載されている。これは美術館の展示に限らず、博物館やショールームに展示されている考古学資料や商品にも当てはまる。キャプションに記載のない情報でも、例えばサイズや色彩は簡単に判別できるし、またそれぞれのジャンルに精通した者であれば、作品や資料に接することによってさらに多くの情報を引き出すことができるはずだ。
またモノの有する情報は必ずしも言語情報ばかりではない。例えば金属や木材、セラミックなど様々な素材のテクスチャーはその素材がどういう性質をもっているのかを教えてくれるし、またドアノブはその形状によってドアの開け方を教えてくれる。知覚心理学やデザインの分野では、モノと周囲の環境の間に成立する意味のことをアフォーダンスと呼ぶが、アフォーダンスもまたれっきとした情報であるということができる。同様に、生け花や盆栽などの生体をモノの一種とみなすなら、それらが有する遺伝子もまた生命情報であることは言うまでもない。
大雑把ではあるが、こうして「モノとしての情報」の在り様を確認すると、様々なモノを展示する展覧会の意義も理解されるだろう。展覧会企画としてのキュレーションは、様々なモノを配列し再構成することによって、個々のモノの持つ情報を引き出すと同時に、モノとモノの関係にも新たな情報を生み出して可視化する高度な知的生産技術なのである。
データベース整理術としての『知的生産の技術』
様々なタイプの展覧会が存在する以上、キュレーションの方法もまた千差万別だが、知的生産技術という観点から、私がその仕事に強い関心を持っている一人が梅棹忠夫である。梅棹は、日本の文化人類学や民族学を代表する先駆的な研究者の一人であり、世界各国をフィールドワークして回った成果は、多くの著作へと結実している。また国立民族学博物館(大阪府)の設立にも尽力し、1974年に開館してからは長らく初代館長の任にあって、同館で開催された多くの展覧会にも関わっていた。だがここで梅棹を取り上げる何より決定的な理由は、『知的生産の技術』にある。1969年に岩波新書から出版された同書は、それから約半世紀経過した現在もなお絶版となることなく、多くの読者に読まれ続けている。本格的なIT時代を迎え、出版当時とはデスク周辺の環境が一変してしまっているにもかかわらず、果たしてこのことは何を意味するのだろうか?
一例として、同書で提唱されているカードの使い方を見てみよう。梅棹はカードとノートを対比し、組み換えができるカードの利点を指摘した上で「カード法は、歴史を現在化する技術であり、時間を物質化する方法である」と強調する。梅棹は主にB6サイズのカードをキャビネット、二つ折りファイル、オープンファイルなどに保管していたほか、必要に応じてこざねや付箋なども使い分け、膨大な情報を自在に組み換えつつ、数々の著作や展覧会のアイデアを生み出していた。
一般に、カードを活用した情報整理法は、17世紀に提唱された「抜粋術」(ars excerpendi)の流れを汲むものとされ、もちろん同書にはそうした側面もある。だがここで提唱されているのはデータベース整理術そのものであり、紙のフォルダーをデスクトップのフォルダーに置き換えて考えてもほとんど違和感がない。このIT時代にも十分通用する先駆性こそ、『知的生産の技術』が今でも多くの読者に読まれている最大の理由ではないだろうか。
いかに生活一般の技術として応用するか
ところで梅棹は、同書の「はじめに」で以下のようにも述べている。
そこで、知的生産の「技術」が重要になってくる。はじめは、研究の技術というところから話をはじめたが、技術が必要なのは研究だけではない。一般市民の日常生活においても、「知的生産の技術」の重要性が、しだいに増大しつつあるようにおもわれる。
資料をさがす。本をよむ。整理をする。ファイルをつくる。かんがえる。発想を定着させる。それを発展させる。記録をつける。報告をかく。これらの知的作業は、むかしなら、ほんの少数の、学者か文筆業者の仕事だった。いまでは、だれでもが、そういう仕事をしなければならない機会を無数にもっている。生活の技術として、知的生産の技術をかんがえなければならない理由が、このへんにあるのである。
ありていに言えば、この一節で提唱されている「知的生産の技術」は、私がここで考察しようとしているキュレーションとほとんど同一のものである。一つの展覧会を組織するにあたって、「モノとしての情報」をいかにして収集・分類し再構成すべきなのか。またそれはいかにしてネット検索のみならず、生活一般の技術としても応用することができるのか。梅棹は、今日は情報の時代であるとし、また知的生産の技術は一部の知識人だけのものではなく、現代人であればだれでも必要な実践的素養であることを強調している。知的生産技術としてのキュレーションの在り方について、後編では実例を挙げながら考えていきたい。